ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファーは、1668年10月30日にバート・イーブルクで生まれた。 両親はハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストとプファルツ選帝侯兼ボヘミア王であり、「冬の王」と呼ばれたフリードリヒ五世の娘ゾフィー・フォン・デァ・プファルツ。

父のエルンスト・アウグストは、ワルテンベルク大司教の死去に伴い、司教領主となっていた。父のエルンストは、熱狂的な所があり、そして名門ヴェルフェン家に誇りを抱いていた。初め、母のゾフィーは、エルンスト・アウグストの兄でカレンバーグ公爵だったゲオルク・ヴィルヘルムと婚約していた。 しかし、享楽的なゲオルク・ヴィルヘルムは、突然ゾフィーとの婚約を一方的に破棄してしまった。当然将来彼と結婚する事を信じて疑わなかったゾフィーは、この婚約破棄に悲しみと大変な屈辱感を感じた。

しかし、ゲオルク・ヴィルヘルムの弟のエルンスト・アウグストが、ゾフィーと結婚してもいいとの事だったため、急遽この二人が結婚する事になった。

しかし、このような奇妙な経緯で結婚した二人だが、上の兄達のゲオルク・ルートヴィヒ、フリードリヒ・アウグスト、マクシミリアン・ヴィルヘルム、一人娘のゾフィー・シャルロッテ、そして後の三人の弟カール・フィリップ、クリスティアン、エルンスト・アウグストを含め、七人の子供にも恵まれ、比較的円満な夫婦関係だった。

また母親のゾフィーは語学だけではなく、当時の女性としては稀な事に、法学・数学にも秀でた才能を示した才女だった。

ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト
ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト
ハノーファー選帝侯妃ゾフィー・フォン・デァ・プファルツ画像
ハノーファー選帝侯妃ゾフィー・フォン・デァ・プファルツ
ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファー
ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

両親は音楽好きでゾフィー・シャルロッテも、 チェンバロを見事に演奏するなど、早くから音楽の才能を現わす。

彼女は快活で教養豊かな女性に育つ。

ゾフィー・シャルロッテは両親から愛され、 幸せに成長した。

その内に彼女の従姉妹のリーゼロッテが、エルンスト・アウグストの許に、預けられる事になる。 原因はリーゼロッテの両親の不仲だった。ゾフィーはリーゼロッテを実の娘同様に、慈しみ育てた。

また母親の愛情に飢えていたリーゼロッテも、 この叔母を実の母のように慕っていた。 二人の関係は終生良好で、リーゼロッテがフランスに 嫁いでからも、長年の間文通が続いた。1678年、彼女は母親に連れられてフランスに旅行した。

母ゾフィーはルイ14世の長男で王太子ルイ・ド・フランスとの結婚を計画し、娘と引き合わせた。

 

 

 

しかし、王太子が20歳、ゾフィー・シャルロッテが10歳とかなりの年齢差があったのに加え、バイエルン選帝侯フェルディナントの娘マリア・アンナやルイ十四世の弟オルレアン公フィリップと先妻ヘンリエッタの娘で、リーゼロッテの義理の娘に当たる、マリー・ルイーズなど、強力なカトリックの他の花嫁候補者達がいた事や、最終的にルイ14世がカトリックの候補者の方が良いと判断した事などもあり、この縁談は成立しないで終わった。なお当時ゾフィー・シャルロッテのいとこのリーゼロッテ・フォン・デア・プファルツは、オルレアン公フィリップの後妻になり、オルレアン公妃になっている。

 

 

 

結局ゾフィー・シャルロッテは、ブランデンブルク選帝侯で、先妻のエリーザベト・ヘンリエッテ・フォン・ヘッセン=カッセルに先立たれ、独り身になっていたフリードリヒと結婚した。先妻のエリーザベト・ヘンリエッテは、夫とはいとこで幼少期から見知っており、夫婦仲も良かったものの、彼女は四年の結婚生活で天然痘にかかり、1683年に一子ルイーゼ・ドロテーを遺して亡くなっていた。 ゾフィー・シャルロッテも、バートピュルモントで1682年に妻の彼女も同伴の時に、フリードリヒと会った事があった。

なお、この前後の11月18日に、兄のゲオルク・ルートヴィヒが叔父ゲオルク・ヴィルヘルムの娘ゾフィー・ドロテアと結婚した。

しかし、母親のゾフィーにとってこの結婚は以前から恐れていた事でもあり、最も回避したかった事態であった。

 

 

 

ゾフィーとの婚約を破棄したゲオルク・ヴィルヘルムは、その後フランス宮廷の女官をしていたユグノーの娘の美しいエレアノール・ドルブレーゼと情熱的な恋愛をし、正式な結婚もしないまま同棲状態となっていた。

そのためその間に産まれたゾフィー・ドロテアは、法的には私生児であった。

しかし、ゲオルク・ヴィルヘルムが戦功を上げた事がきっかけで、神聖ローマ帝国皇帝に、貴賎結婚ながら二人の結婚が正式に認められる事になった。

その後、彼は領地欲しさに、かつて一方的に婚約破棄したゾフィーの息子であり、弟の子でもあるゲオルク・ルートヴィヒと娘を結婚させる事を思いついた。

また弟のエルンストも、同様の算段をしており、兄弟間での利害の一致により、この結婚が決定された。

これにより兄弟の領地は、併合される事になった。 しかし、ゾフィーは身分の低い女官のエレアノールが大公夫人となり、自分と親戚になる事を大変に嫌がった。

また、その娘のゾフィー・ドロテアの事も、息子と結婚してからも依然として「フランス人の私生児」として嫌っていた。

 

 

 

ゾフィーが、プファルツ選帝侯の父とイングランド王女エリザベス・ステュアートを母に持つ、自分の血統に誇りをもっていたためであった。しかし、大きな理由は自分のかつての婚約者と結婚した、エレアノールに対する嫉妬からであった。

このように初めから不吉な予感を孕んでいたこの結婚は、結局失敗に終わった。

ゲオルク自身も、不器量な愛人達を多数作り、美人の妻には見向きもしなかった。

両親から、享楽的で無思慮な性格を受け継いでいたのか、間もなくゾフィー・ドロテアは、夫に顧みられない淋しさから、ケーニヒスマルクス伯爵フィリップ・クリストフと不倫関係に陥った。

彼と駆け落ちしようとしたゾフィー・ドロテアは、怒った夫ゲオルクにより、アールデン城に幽閉され、1714年に夫がジョージ一世としてイギリス国王になっても、幽閉から解放される事はなかった。

やがて彼女の死の直前と思われる頃、夫の無情な仕打ちを呪う手紙を届けさせ、 それを読んだ後に、ジョージ一世は急死したという。

 

 

 

一方、こちらは母のゾフィーが大いに乗り気であった、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒとゾフィー・シャルロッテの結婚式が、1684年10月8日に執り行われた。

しかし夫のフリードリヒはせむしでやぶにらみであり、「やぶにらみのフリッツ」と呼ばれていた。人々は不似合いなカップルだと噂した。 フリードリヒは幼い頃から病弱であり、性格は内向的だった。

一方、ゾフィー・シャルロッテは高い知性を持ち、多方面に好奇心を持ち、陽気な女性だった。同時代人の記述によると、彼女は柔和な青い瞳と黒髪のふくよかな美女だったという。1685年には長男のフリードリヒ・アウグストが(早世)、1688年には次男で後のフリードリヒ・ヴィルヘルム一世が誕生した。しかし、この長男のフリードリヒ・アウグスト早世については、ベルリン宮廷である噂が囁かれていた。

その噂とは、王子の死はフリードリヒの継母で大選帝侯の後妻のドロテア・フォン・ホルシュタインによる、毒殺ではないかというものだった。

 

 

 

かつてフリードリヒには、カール・エミールという選帝侯太子だった兄がおり、彼が戦地から帰還後に死んだ時も、ドロテアに砒素を盛られたのだと専らの噂だったのである。

以前の時も今回も、ドロテアが自分の息子フィリップを選帝侯にするために、邪魔なライバル達を排除しようとしたのがその理由だとされた。 実際ゾフィー・シャルロッテが長男を妊娠していた時、この事が舅夫妻に緊張と警戒感を与えたという。

特にドロテアは嫁の妊娠を知った時、金切り声を上げたと噂された。

ゾフィー・シャルロッテは、舅達のこのような態度に深く傷ついた。そして息子の死を悲しんだ。フリードリヒは以前からこの継母のドロテアを嫌っており、兄のカール・エミールの死も、長男のフリードリヒ・アウグストの死も彼女のせいだと思っていた。

当然ながら妻のゾフィー・シャルロッテも、長男の死には、ドロテアが関係していたのではないかと疑っていた。

 

 

 

ゾフィー・シャルロッテは、しばらくはこのように不快な宮廷の人間関係に悩まされたものの、大選帝侯とドロテアの死去後は、ベルリン宮廷は平穏になった。

フリードリヒとゾフィー・シャルロッテはまるで性格の違う夫婦ながらも、夫のフリードリヒは聡明で美しい妻に満足し、ゾフィー・シャルロッテの方もそれなりに夫を愛し、 ひとまずは平和な夫婦関係だった。

ゾフィー・シャルロッテは、芸術を愛好し、談笑したり、時には真剣に議論を戦わせたりした。またダンスや歌、ゲームなどに興じたりして過ごした。

しかし、ある人物の台頭でゾフィー・シャルロッテの生活に暗雲が垂れ込めてくる。

その人物の名前は、エーベルハルト・フォン・ダンケルマン。

 

 

 

フリードリヒの家庭教師であり、彼から深い信頼を寄せられる相談相手・親友でもあった。彼は1643年に、地方裁判官の息子として生まれる。ダンケルマンは二ーダーザクセン州の優秀な法律家であり外交官だった。彼は厳格なカルヴァン派で、時々怒りっぽくなる時があった。

元々彼は病弱で臆病な息子フリードリヒの事を心配した彼の実母ルイーゼ・ヘンリエッテが、家庭教師として抜擢した人物だった。

こうして二十一歳であったダンケルマンは、八歳のフリードリヒ付きの家庭教師になる。ダンケルマンは出世のために、このルイーゼを利用させてもらう事になった。

ダンケルマンは無愛想で、けして親しみやすい人物ではなかったが、父の大選帝侯から兄カール・エミールに比べ、殆ど顧みられないフリードリヒは、父親のような信頼感を寄せていたようだ。

大変な野心家でもあったダンケルマンは、1695年 についに国務大臣にまで登りつめた。 ゾフィー・シャルロッテとダンケルマンは、ゾフィー・シャルロッテの実家ヴェルフェン家の方針とダンケルマンの政策は相容れない事が多いという理由により、 二人は対立する事となっていく。

 

 

 

また性格の上でも、二人は全く合わなかった。 ダンケルマンは厳格なプロテスタントの上に、 極端な倹約家であり、ゾフィー・シャルロッテにまでそのような倹約を奨励したのである。フリードリヒからは厚い信頼を寄せられ、大きな権力を振るっていたダンケルマンだったが、 突如失脚の時が訪れる。

1697年の11月27日に彼は逮捕され、禁固刑に処された。

ゾフィー・シャルロッテは、ついに彼の悪事が発覚したのだと思った。 

ゾフィー・シャルロッテと母のゾフィーは仲の良い親子で、共に高い知性を持ち合わせた女性だった。ゾフィー・シャルロッテはしばしば母の許を訪れ、会話を楽しんでいる。

1769年に若いロシア皇帝ピョートル大帝が ドイツを訪れた。

しかし、彼らロシア皇帝一行は粗野で野蛮人のような振る舞いをするとして、滞在先の各諸侯達から 大変な顰蹙を買っていた。

彼ら一行の事は、たちまちドイツ中の噂の的となった。

 

 

 

しかし、旺盛な好奇心を持ったこの母娘は。ピョートル大帝の滞在を歓迎した。

政敵のダンケルマンが失脚し、晴れ晴れとした気持ちでいたゾフィー・シャルロッテだが、息子で問題児であった王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムの素行がまた悪くなり始め、失望感を味わっていた。

更にその上、父のエルンスト・アウグストが 長年の病の末に死去してしまった。

そんな中、ゾフィー・シャルロッテにとって嬉しい夫からの贈り物があった。

彼女のために、リーツォーまたはリュッツォー村に夏の離宮として、リーツェンブルク宮殿を建設してくれる事になったのだ。

1695年に、建築家ヨーハン・アーノルド・ネリングが呼ばれ、施工に着手した。

しかし、その途中、彼が急死し、後任のエオザンダー・フォン・ゲーテに引き継がれた。やがて宮殿には華麗な装飾が施され、敷地内にオペラハウスも建設された。

アンドレアス・シュリューターに拡張工事が引き継がれ、1699年に完成した。1705年のゾフィー・シャルロッテの死去後には、「リーツェンブルク宮殿」は、「シャルロッテンブルク宮殿」と名を改めた。

 

 

 

ゾフィー・シャルロッテは、この美しい宮殿の完成に大変喜び、夫に深く感謝した。

この頃、ダンケルマンの後任として、ワルテンベルク伯爵ヨーハン・カジミール・フォン・コルベが フリードリヒの顧問として影響力を強めていく。

しかし、ゾフィー・シャルロッテは彼について「軽薄で信用ならない人物」と鋭い評価を下している。そしてこのカタリーナの出現自体も、あまり良い気分ではなかっただろうが、何よりゾフィー・シャルロッテにとって耐え難かったのは、ついにフリードリヒが、カタリーナをリーツェンブルク宮殿にまで、出入りさせるようにしてしまった事であった。 当時、神聖ローマ帝国の権威は揺らぎ始めており、強力なドイツの諸侯達は国王の地位を切望するようになっていった。

フリードリヒとて例外ではなく彼は1700年に神聖ローマ帝国皇帝レオポルト一世に、初代プロイセン国王の称号使用の許可を求めた。 この交渉の結果、フリードリヒは譲歩し、想定される今後のスペイン継承戦争の折には、プロイセンはオーストリアに軍隊を提供し、更に皇帝レオポルトに六百万ターラーの支払いをする事で決着を見た。

 

 

 

ついにフリードリヒはプロイセン国王となる事となり、妻のゾフィー・シャルロッテも夫のプロイセン国王即位を喜んだ。

フリードリヒのプロイセン国王即位祝いに、ゾフィー・シャルロッテの母のゾフィーも駆けつけた。 1700年の12月17日、フリードリヒ一行は、戴冠式の行なわれるケーニヒスベルクを目指し、1700人と3万の馬を連れ、 六百キロメートルの行程を辿った。 12月29日、合計約12日間の行程を経て、一行はケーニヒスベルクに到着した。

1701年1月18日、初代プロイセン国王フリードリヒ一世と初代プロイセン王妃ゾフィー・シャルロッテの即位式が行なわれた。 元々高い知性に恵まれ、知的好奇心が旺盛だった ゾフィー・シャルロッテは母ゾフィーと同じく、 哲学を学ぶようになっていく。

1697年頃からゾフィー・シャルロッテは、 当時既に著名な哲学者であったライプニッツと 文通を始めている。

母のゾフィーは、ライプニッツの最大の後援者であり、弟子であった。ライプニッツは1646年にライプツィヒで生まれた。

彼は1661年に15歳でライプツィヒ大学に入学するなど、若い頃からその非凡な才能を表わしていた。

 

 

 

その内彼は「予定調和」の理論を考案する。彼とゾフィー・シャルロッテの交流は、知的刺激に満ちたものだった。

1697年にライプニッツは、観測所の建設を考える。 そして彼は更に観測所の建設だけでなく、様々な学問の発展を促進し、学者に固定給金を支払う「諸学協会」の設置を人々に提案した。彼の計画には、たちまち多くの賛同者が現れた。もちろんゾフィー・シャルロッテも、この計画に大賛成だった。

そして更に都合の良い事に、フリードリヒも日頃から芸術や学問の振興に熱心であり、 そのための経済的援助を惜しまなかった。

1700年の7月にブランデンブルク諸学協会が創設され、7月12日にライプニッツはそこの初代院長に任命された。

また、フリードリヒの協力もあり、1694年にはハレ大学が創設され、1696年には芸術アカデミーが創設された。

 

 

 

1702年の夏に、ゾフィー・シャルロッテの願望が叶い、リーツェンブルク宮殿でライプニッツら哲学者達の長時間に渡る講義を受ける事ができた。 またこの時の彼女とライプニッツとの対話が、後年の彼の著作「弁神論」執筆の契機となった。また、この時ゾフィー・シャルロッテは急進的な宗教批評家だったピエール・ベールも宮殿に招いている。当時、彼の「歴史的批評的辞典」が世間の大きな関心を集め、議論を呼んでいた。

 

 

 

ゾフィー・シャルロッテは、哲学などの学問の他にも、音楽に深い関心を持っており、また彼女自身も音楽的才能に恵まれていた。

彼女は少女時代に宮廷オルガン奏者のアントン・コベルクからチェンバロの演奏を教わり、完璧に弾きこなす事ができたという。

ゾフィー・シャルロッテは、特にフランスとイタリアの音楽を愛好し、確かな鑑賞能力も持っていた。 彼女が特に気に入っていた作曲家は、アゴスティーニ・ステッファーニとアッティリオ・アリオスティだった。

彼らはリーツェンブルク宮殿で度々、楽曲の演奏を行なう事になった。

イングランドでは1714年の8月に、アン女王が子供がないままで死去し、新たに作られた「王位継承確定法」によって、ステュアート王家の子孫で王位継承権を持つ、プロテスタントのゾフィーの息子で、ゾフィー・シャルロッテの兄であるゲオルク・ルートヴィヒが、ウェストミンスター寺院で1714年10月31日に初代ハノーファー家出身のイングランド国王ジョージ一世として即位した。

 

 

 

1705年1月12日、ゾフィー・シャルロッテは乗用馬車で、未亡人となっていたハノーファーの母ゾフィーに会いに行った。

しかし、彼女の体調は優れず、熱と喉の痛みがあった。高熱を出した彼女は直ちにハノーファーでベッドに寝かされ、侍医のラ・ローズが薬を処方した。侍医は喉頭炎だと診断した。ゾフィー・シャルロッテも、翌朝には体調が持ち直したかに見えた。

だがその内再び病状が悪化し、1705年2月1日にゾフィー・シャルロッテは死去した。36歳だった。

この報せを聞いたフリードリヒは、激しく動揺し、そして偽りでない、心からの悲しみを表わした。また王妃の死の報せを耳にしたライプニッツも、大きな衝撃を隠せなかった。日頃から様々なテーマで論じ合っていた彼とゾフィー・シャルロッテの間は、深い尊敬と親愛の情で結ばれていた。

廷臣のフレミング伯爵も、王妃ゾフィー・シャルロッテの早過ぎる死を悼んでいる。

 

 

 

ゾフィー・シャルロッテの、豪華絢爛な国葬が行われる事になった。

この豪華な葬儀にはフリードリヒ一世の、ルイ十四世にプロイセンの力を誇示するという政治的デモンストレーションの目的も含まれていた。1705年の3月22日、ゾフィー・シャルロッテの柩は宮殿の礼拝堂に仮葬された。 ゾフィー・シャルロッテの死後、フリードリヒ一世はシャルロッテンブルク宮殿建設の全権を委任されたシュリューターに、豪華な石棺と黄金色の墓碑の制作を依頼した。 またベルリンのドームの中には、記念碑が建造された。 さらにゾフィー・シャルロッテの美徳を描写したレリーフも建造された。 1705年の6月28日、初代プロイセン王妃ゾフィー・シャルロッテの国葬が盛大に執り行われた。数キロメートルに渡る葬列が続いた。そして雷鳴のような大砲が響き渡った。  1705年の6月10日、ライプニッツはゾフィー・シャルロッテについて、こう書き留めている。

「王妃ゾフィー・シャルロッテは信じ難い程の学識を持ち、深遠なる物事に関しても正しい結論を下す事ができた。そして並外れた知識欲を持っていた。私達は様々なテーマについて、有意義な対話をする事ができた。」

ジョージ一世
ジョージ一世
ゾフィー・ドロテア
ゾフィー・ドロテア
ケーニヒスマルクス伯爵フィリップ・クリストフ
ケーニヒスマルクス伯爵フィリップ・クリストフ
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ゲオルク・ヴィルヘルム
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ゲオルク・ヴィルヘルム
エレアノール・ドルブレーゼ
エレアノール・ドルブレーゼ
大選帝侯フリードリヒ・ヴィルへルム・フォン・ブランデンブルク
大選帝侯フリードリヒ・ヴィルへルム・フォン・ブランデンブルク
フリードリヒ一世
フリードリヒ一世
エーベルハルト・フォン・ダンケルマン
エーベルハルト・フォン・ダンケルマン
シャルロッテンブルク宮殿
シャルロッテンブルク宮殿
ワルテンベルク伯爵ヨーハン・カジミール・フォン・コルベ
ワルテンベルク伯爵ヨーハン・カジミール・フォン・コルベ
ゴットフリート・ライプニッツ
ゴットフリート・ライプニッツ
ピエール・ベール
ピエール・ベール
アゴスティーニ・ステッファーニ
アゴスティーニ・ステッファーニ
アッティリオ・アリオスティ
アッティリオ・アリオスティ