彼女は、何よりも夫である自分に対して、従順な妻でなければならなかった。

王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムは十八歳で、既にかなりの体重をしていた。

そして彼の日焼けした顔は、プロイセンの王子というよりも、農民または単純な兵士のような様子だった。

全く、彼はゾフィー・ドロテアがこよなく愛していた、上品な文化、祝祭、贅沢と優雅さ、これらの要素とは、かけ離れた存在だった。 そして幼児の日々以来、ゾフィー・ドロテアは、十分にこのいとこの粗暴な性格について知っていた。彼が恐ろしく短気だったために。ツェレのアールデン城に幽閉中の王太子妃の母親に代わり、祖母である、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーが、孫娘の結婚式の準備に、入念に取り掛かっていた。

 

 

そしてゾフィーは、フランスに嫁入り道具を注文した。 彼女は十一月六日にベルリンヘ宛てて書いた。「四着のローブ。三着のコート。 一つの下着。二晩分のスカート。アクセサリー。帽子。靴。手袋。 スリッパ。リボン。」 一七〇六年十一月二十八日、王宮の礼拝堂で見られる、結婚式の儀式。伝統的な松明の踊りでそれを終えた。

(この踊りは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の時代まで、王太子の結婚の時に行われる、ホーエンツォレルン宮廷の伝統的な踊りだった。) 結婚式の客達の中には、かの偉大な哲学者、ライプニッツの存在もあった。

それから数日間の間、祝祭が続いた。仮面舞踏会。バレエ・パフォーマンス。花火、そして、 他の祝祭。王太子妃ゾフィー・ドロテアはこのような輝きを楽しんで、十一月三十日にハノーファーに宛てて、喜んでこう書いている。「私は、とても美しい全てを、ここで見つけます。私が信じるために。心を動かされるために、見事な神話の宮殿に。」

 

 

 

そしてこの結婚式の祝祭の時に、他の男性達と王太子妃のゾフィー・ドロテアは笑いながら、冗談を言い合っていた。優雅なハノーファーの宮廷で育った彼女にとっては、こうした振る舞いは、何の問題もないことであったが、フリードリヒ・ヴィルヘルムからすれば、夫である自分以外の男性と、自分の妻がこのように親しげに、そしてコケティッシュに振舞うということは、一切我慢がならないものであった。 こうして王太子夫妻の間での、最初の深刻な緊張が起こった。

激しい嫉妬と妻の振る舞いに怒りを感じた王太フリードリヒ・ヴィルヘルムは決意をした。 彼の潜在的な競争者を恐れさせ、そして、彼の浮ついた配偶者について適当な警告を促すこと。従って、彼はほとんど信じがたい次のような行動を、決定した。

何と彼は必死の妻ゾフィー・ドロテアの抵抗を無視して、一七〇六年十二月四日、その彼女の美しい見事な栗色の髪を切り落としてしまったのである。「フォンタンジュ」という、フランス風の髪型にしていた髪を。

偶然からこの髪型を考案した、ルイ十四世の愛人のフォンタンジュ公爵夫人にちなんで、こう呼ばれていた。 またライプニッツも、このプロイセンでの、王太子による妻に対しての、残酷で野蛮な行為について、手紙の中で触れている。彼女の長い栗色の髪。

彼女の容姿の中で、最も大きな魅力を成していた、その髪。しかし、それは無残にも、力ずくで短く刈り込まれていた。

 

 

誇り高いヴェルフェン家の娘の彼女にとっては、大変な屈辱、そして自慢の髪を切られた深い悲しみ。やむなく、王太子妃ゾフィー・ドロテアは、夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムに切られた髪が伸びるまで、しばらくの間、かつらを付けて過ごさなければならなくなった。 それから、このような行動は、嫉妬心が何よりも大きな動機ではあったのであろうが、およそフランスと名の付くものは、何でも嫌う程の、彼のフランス嫌いにも起因していたのかもしれない。

まもなく彼女の妊娠がわかり、やっと彼女は彼女の気難しい配偶者と、より親しくなることができた。一七〇七年十一月二十三日に、王太子妃ゾフィー・ドロテアは、小さな王子を出産した。彼のプロイセンの祖父フリードリヒとoranien(オラニエ出身のフリードリヒ一世の母ルイーゼ・ヘンリエッテの後)にちなんで、この名前とオラニエの称号を与えられた。しかし、この小さな王子フリードリヒは、わずか生後数ヵ月後に死んでしまった。一七〇八年五月十三日に。

 

 

この不幸は、ベルリン宮廷で深く、それは深く悲しまれた。もちろん、母親のゾフィー・ドロテア自身が誰よりも、特に彼女のこの最初の子供の死をひどく悲しみ、深く落ち込んだ。 なお、彼女はこれ以降も、しばしば、このような夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムの、激しい嫉妬に悩まされ続けることになるが、しかし、こういった態度を国王の、彼女に対する愛から来ているものと判断してよいのかは、かなりの疑問が残る。

実際に、彼は王妃であり妻であるゾフィー・ドロテアの意志や感情を、ほとんど尊重しようとはしていない。そもそも、そういう発想自体を、彼は一切持ち合わせてはいなかった。また日頃のフリードリヒ・ヴィルヘルムの妻であり王妃であるゾフィー・ドロテアに対する態度も、けっして彼女の望むような接し方ではなかったことも、明らかである。

フリードリヒ・ヴィルヘルムの妻に対するこの激しい嫉妬は、愛というより、彼のその強い支配欲から来ていたものではなかったのだろうか。

 

 

 

それは、深刻に始まった。王太子妃ゾフィー・ドロテアの健康についての心配。

彼女はすっかり精神的にも肉体的にも、消耗していた。 そして確実に後継者を得るためという名目で、宮廷では王太子と彼女を離婚させて、再婚させるという陰謀が、企てられ始めていた。当時の宮廷でのゾフィー・ドロテアの最大の敵の一人が、この新たな結婚計画の提案者である、レオポルト・フォン・アンハルト=デッサウ侯爵だった。

つまり、国王フリードリヒ一世の母のルイーゼ・ヘンリエッテの妹の、ヘンリエッテ・カタリーナ・フォン・オラニエの息子である。 そしてこのレオポルトのホーランド人の姪の一人と、若い王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムを、結婚させる計画。

実は以前にも、その頃はまだ王太子がゾフィー・ドロテアとの結婚前であった時に、彼からのこの計画についての、国王への打診がなされたことがあった。

 

 

しかしその時には、当時まだ存命であった王妃ゾフィー・シャルロッテは、一七〇四年十二月二十七日付けの手紙で、彼女の息子のフリードリヒ・ヴィルヘルムに、それを納得させている。そのような結婚に、国王が決して同意しないことを。

そこで今度は彼らは、王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムの嫉妬を、最大に利用することを思いついた。従って彼らはそれを指摘した。王太子妃ゾフィー・ドロテアはれっきとした彼の妻である。

しかしすでに妻たる王太子妃の彼女が結婚式の時に、他の男性とふざけていたこと。

そして王太子妃は、完全に必死だった。

この陰謀に不安を感じた王太子妃ゾフィー・ドロテアは、翌年から、激しい嫉妬心から自分への猜疑に陥っている夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムに対して、必死で釈明を試みた。 そして結局、何とか夫をなだめることに成功し、こうして何とか彼らの離婚に発展する危機は、回避された。

そしてフリードリヒ・ヴィルヘルムは、とてもとても恐れていた。 自分が彼の若い妻から愛されないために。

 

 

やがて再び、夫婦の間に、今度は小さな女の子の、一七〇九年七月三日に、第一王女ヴィルヘルミーネが生まれた。

父親のフリードリヒ・ヴィルヘルムも、この娘の誕生には喜んだ。彼は実際は元気な息子、「小さな擲弾兵」を望んでいたが。

そして、その翌年の王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムの誕生が、この夫婦のより大きい調和を助けた。 こうして、ゾフィー・ドロテアはようやく、彼女の気難しい夫と幕間を持つことができるようになった。

ゾフィー・ドロテアは、その時二十三歳で、既に自分を取り巻く現実を、受け入れなければならなかった。

だが、まさに彼女にとっての最高の瞬間、一番楽しかった時といってよい、国王フリードリヒ一世の趣味から、華やかなバロック風の宮廷生活が、プロイセン宮廷の隅々にまで行き渡っていた頃、まさにその最中に行なわれた、夫の王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムとの華やかな結婚式、そしてそれに次ぐ、数々の楽しい祝祭などの催しごと。

しかし、そういった夢想からも醒め、我に返った彼女は、また非常にすぐに、味気ない、失意の現実に引き戻されるだけだった。

 

 

かつて彼女が結婚前に夢見ていた、祝祭、演劇、豪華な衣装、美術や文学の香り漂う、ハノーファー選帝侯女、そしてプロイセン王太子妃としての、華麗な生活の数々が、それら全てのものを嫌った、フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚したことで、全て文字通り夢と終わってしまったことを。

そして早くも、この五年後の一八一五年には、正式に新国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世の命令により、喜劇や舞踏会、仮装舞踏会が禁止されてしまっている。

しかもこうした傾向は、更に宮廷内だけではなく、市民の方にまでも及び、一七二七年には市民達の楽しみであった射的大会でさえも、禁止されてしまった。

宮廷のみならず、市民達にまで及んだ、これらの娯楽禁止命令も、結局は国王がこれらを楽しいとは思わなかったからである。

国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、行き過ぎた実利主義者であった。

そしてほとんど芸術というものを解さない、フリードリヒ・ヴィルヘルムにとっては、絵でさえも、自分の狩猟の獲物である鹿や、農場で一番良い牝豚を、手本とするために描かせる他は、大男の近衛兵を描かせる程度のものでしかなかった。

 

 

ベルリンのヴスターハウゼンの狩猟館。フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ここで大好きな狩猟への情熱を、追求していた。

そしてゾフィー・ドロテアは、夫のこういった、一連のライフスタイル及び、そして自分が国王になってからは、明らかに自分にもそれを強制してくる夫に、不満であった。

そして一方、彼女が好きな何かと高くつく宮廷の各祝祭が、彼女の倹約する配偶者にとっては恐怖だった。

ゾフィー・ドロテアは、夫が好む、キャベツに豚肉、グリーンピースに羊のカツなどという、質素な農民風の食事が嫌いだった。

相変わらず、彼らは何もかも異なる、しっくりいかない夫婦のままであった。

そしてこの一七一一年の夏は、再度の嘆かわしい出来事を通して、更に曇っていた。

一年前の一七一〇年に誕生し、またこれも一七〇八年に早世した兄フリードリヒと同じオラニエの称号を与えられた、二人目のホーエンツォレルンの王子フリードリヒ・ヴィルヘルムは、七月三十一日に、これも兄と同じく、辛うじて生後一年を生きた後、再び幼くして死去してしまった。

 

 

そして最終的にはこの夫妻の間には、数人の夭折した子供達をも含めて、実に十四人もの子供達に恵まれ、また国王フリードリヒ・ヴィルヘルムが愛人を持つようなこともなかった。 しかし、これをやはり、これもしばしばゾフィー・ドロテアに対して示された、彼の理不尽で激しい嫉妬と同じく、妻への愛と解釈してよいのかは、はなはだ疑問である。

やはり、愛人などを持つと、何かとお金がかかる上に、甘い言葉などで機嫌を取ったりしなければならないなど、愛人を持つということは、こういったことを嫌っていた国王にして見れば、何かと面倒なことの方が多く、単に自分の性的欲求を手近な妻を相手に、解消しようとしていただけなのではないだろうか。 また、ゾフィー・ドロテア自身も、自分がけして夫から愛されているとは、思っていなかった。

一七一二年一月二十四日の日曜日、プロイセンとオラニエの現在の王子。

教会の鐘は、高らかに鳴らされた。

全部の都市と宮廷がこの瞬間に、言語に絶する喜びを与えられた。

王家の使者は、ベルリンで王太子フリードリヒの出生を発表した。 ついに、待望の第三王子、そして「フリードリヒ大王」として、歴史に名を残すことになる、王子フリードリヒの誕生である。一月三十一日に彼はベルリン宮殿で洗礼を受けた。

この孫の誕生を見届けた国王フリードリヒ一世は、王子の誕生から約一年後の一七一三年二月二十五日に死去した。

 

 

新国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世が即位し、代替わりした途端、それまでのフランスのバロック風の華やかな宮廷は、一変に様変わりすることとなった。

直ちにフリードリヒ・ヴィルヘルムは、王家所有の品であるメダルのコレクションや、それまで周囲を華やかに飾っていた食器セットや燭台などの銀器は全てベルリンで溶かし、銀貨に変えさせた。更に、宮廷の廷臣の人員も、大幅に削減された。

そしてまた、こうした国王の新たな抜本的な経済的処置は、芸術家と科学者達に対しても、容赦なく行なわれた。徹底した実利主義者だった国王フリードリヒ・ヴィルヘルムにとっては、具体的な利益にならない学問や芸術など、全く無用の物であった。

従って、それまで数多く宮廷に出入りしていた美術建築家もオルガン職人も金細工師も解雇された。そして国王にとっては、大学も真理の探求のためにあるのではなく、国家の役に立つ人材や官吏を養成できればそれで良かった。

 

 

そしてヨーロッパで初めて経済学と政治学の講座や、医学部に解剖学用の階段教室を設けさせたのも彼であった。

こうして節約されたお金は、大半をブランデンブルグ・プロイセンの軍備増強のために、充てられた。かつてフリードリヒ一世の下で、ベルリンは文化が興隆していたアテネだった。そして新国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世の下で、それは古代の軍事最優先のスパルタに変わった。

芸術や学問を愛し、フランスのルイ十四世風の、バロックの優雅で華やかな生活を好んでいた、前国王フリードリヒ一世と前王妃ゾフィー・シャルロッテら両親には、全く似ていない息子であった。

もちろんこうした成り行きに、大いに不満であったと思われる、王妃ゾフィー・ドロテアは、それでもこうした夫の徹底した倹約振りに、不満を言うことができなかった。

フリードリヒ・ヴィルヘルムは、妻子には徹底的な服従と従順さを求め、王妃である彼女でさえ、国王に暴力を振るわれることも、しばしばであったからである。

 

 

国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、即位と同時に、徹底した国の予算の見直しを行ない、従来の宮廷の年間予算の270000ターラーを80%も削減した55000ターラーにまで削減している。

しかし、彼は彼の「フィークヒェン」(ゾフィーという名前の愛称。)への、特別な譲歩をした。冬服だけは王妃ゾフィー・ドロテア好みの、華やかなものを着る事を許されたのである。更に王妃の謁見の間には、金がふんだんに使われていた。 そして、王妃は銀の食器を使っていた。しかし、王妃ゾフィー・ドロテアは、前国王フリードリヒ一世の頃とは一変した、宮廷のこの無味乾燥な雰囲気に苦しんだ。 特に彼女は教養はそれなりに持っていたものの、少しの重要な精神的な事柄への関心も特に持っておらず、従って専ら華やかな娯楽や催し事ばかりに依存していたために。

しかし国王の方針により、宮廷の侍女や小姓、制服従僕達は食事代を自分で賄わなければならない有様であった。宮廷全体の賄費が一日三三・五ターラーを切ることは許されなかった。これも、当時の選帝侯の宮廷としては考えられない程の小額だった。

 

 

また国王自身は満腹しても家族や客達を満足させることなかったと、長女のヴィルヘルミーネが彼女の回顧録で後に報告している。

そして、ゾフィー・ドロテアは学んだ。この夫と生活していくために大切な事を。フリードリヒ・ヴィルヘルム自身の、その持ち前の主義から、彼からはその騎士道的態度と礼儀正しさは一切期待する事はできないものだった。 後継者の王子フリードリヒ出生の後、一七一三年五月に、アルベルティーネが誕生した。しかし既に次の年にこの子供は、死去した。そしてその次の子供は、一七一四年にフリーデリーケとして生まれた。

一七一六年のシャルロッテ。一七一七年、フリードリヒ・ヴィルヘルムの若い王子。

それは、わずか二歳になっていた。

一七一九年には、ゾフィー。

一七二〇年には、ウルリーケ。

一七二二年には、「小さな擲弾兵」の誕生。

父の大好きな息子。

アウグスト・ヴィルヘルム。

一歳の故アマーリエ。一七二六年に、ハインリヒ、そして最後に一七三〇年にフェルディナント。

 

 

 

王妃ゾフィー・ドロテアは、フリードリヒ・ヴィルヘルムから、それまでかつての宰相ヴァルテンベルクの所有だったモンビジュー離宮が贈られた。ベルリンの北のモン・ビジュー離宮。「私は、宮殿だけではなくそこにある公園を好みました。また、そのプロイセンの禁欲的な後期のバロック時代の小さな宮殿は非常に魅力的に、私のように見えるました。そして、宮殿内部は、両翼への作り付け家具でした。 門番小屋と薬局。そして、それはシンボルでした、戴冠の彫像です。」

全部の施設は、一七〇〇以後の十年目に、クノーベルスドルフにより建設された。

ここは一八七七年以降ホーエンツォレルン博物館として用いられていたが、残念なことに、第二次世界大戦で完全に破壊された。

こうして王妃ゾフィー・ドロテアの所有となったモンビジューは、やがてプロイセン・ロココの粋を尽くしたインテリア・デザインで飾られることとなった。

 

 

この宮殿で、王妃ゾフィー・ドロテアは、心ゆくまで存分に、これまでさんざん夫に抑圧されて禁じられていた、全てのそれらの彼女の大好きな娯楽を追求することができた。

魅力的なレセプションまたは音楽など。

これまでベルリン宮廷では、ことごとく夫から嘲られていたもの。

しかしここでは、王妃の愛する祝祭も、賛美された。またこのモン・ビジューで、ゾフィー・ドロテアは、国王に邪魔されずに、他に好んでいた賭博も、頻繁に行なうことができるようになった。

だがフリードリヒ・ヴィルヘルムは、彼女の演劇と賭博に対する彼女の関心、及び賭博で手に入れた利益を嫌っていた。

そして以前は常にフリードリヒ一世が暗に、彼女が賭博で失ってしまった分の、お金の支払いの遅延を解決していた。

夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムよりも、彼女に対してより優しくてより同情的な、プロイセン王家の義理の父親。

また実際に、ゾフィー・ドロテア自身も、夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムよりもはるかに、この温和で自分とは華やかな好みも位置する、義父のフリードリヒの方に好感を抱いていた。そしてフリードリヒ・ヴィルヘルムの激しい嫉妬は、この父親に対してさえ、向けられることさえあった。

フリードリヒ・ヴィルヘルムは、彼の配偶者のこの華麗で優雅な宮殿では、大変な居心地の悪さを感じ、彼がこの宮殿を訪れることは、極めて稀だった。

そして彼は圧倒的に、自分のヴスターハウゼンの狩猟館の方を好んでいた。