一七二六年十一月に、それまでずっとツェレのアールデン城に幽閉されていた、王妃ゾフィー・ドロテアの母親が死去し、ツェレの町の教会に埋葬された。

そして一人娘であった王妃は、かなりの財産を相続することとなった。

なお夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムの、激しい妻への嫉妬が治まったのは、この妻の莫大な遺産相続に、気を良くしたからだとも言われている。 一七三三年六月十二日に、ザルツダールム宮殿(ヴォルフェンビュッテル)で王太子フリードリヒとブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公女エリーザベト・クリスティーネの結婚式が挙げられた。

これまで彼女が大いに熱意と野心を抱いて積極的に推し進めてきた、イギリス王子フレデリック・ルドヴィックと長女ヴィルヘルミーネとの、そしてイギリス王女アメリアと長男の王太子フリードリヒとの二つの結婚。

そして聞く所では「愚かなガチョウ」だという、息子の王太子フリードリヒの妻で義娘のエリーザベト・クリスティーネ。

だがそれでも、彼女はこの結婚をあきらめて、認めなければならなかった。

 

 

王妃ゾフィー・ドロテアは既に、自身も大変に苦々しく思っている、本来の希望していた息子の結婚相手ではなかった、フリードリヒの将来の妻である、公女エリーザベト・クリスティーネへの嫌悪を、絶えず刺激しようとした。更にゾフィー・ドロテア自身の、彼女に対する憎悪の厳しい攻撃。

とはいえ、この頃、王妃ゾフィー・ドロテアにとって、特に悩みとなるようなことは、既に存在しなくなっていた。

彼女に対する夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムの激しい嫉妬は、著しく歳月とともに軽くなっていた。そして、若いフリードリヒについての彼の怒りさえ、息子に対する誇りに変わり始めていた。

それまでひたすら父親からは女々しい、軟弱と見られていた王子は、一七三四年夏の、ポーランド継承戦争での最初の軍の活躍で、その有能さを父に証明した。

 

 

そして衆知の通り、国王フリードリヒはプロイセン国王としては、数々の業績を残し、精力的に活動し続けたが、彼の家庭生活及び交友関係、つまり、個人的生活の方は、しだいに淋しいものとなっていった。

善良で愛情深い妻のエリーザベト・クリスティーネに対して、ラインスベルク宮殿での彼女との睦まじい年月以外を除き、なぜか再び彼女に対して心を閉ざし続け、侮蔑する態度を示すようになり、晩年になるにつれ、孤独の度合いを深めていくこととなった。

そして特に際立った才能がある方でもなく、またフェルディナント自身のその閉鎖的で偏屈な性格や、途中で彼が肺病にかかってしまい、早々に軍役を退くこととなり、彼が兄の国王フリードリヒの軍隊にとって、具体的な役に立たない存在になったせいもあり、この末弟のフェルディナント自身と兄のフリードリヒとの関係は良くはなかった。

だがその彼の息子で、快活で才気ある甥の王子ルイ・フェルディナントのことは、彼の他の弟のハインリヒや妹のアマーリエらと共に、比較的可愛がっていたようだ。

だがそれでも、彼ら一家ともそう頻繁に、親戚付き合いをするという訳でもなかったようだ。

 

 

国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、自身の強い健康に任せての、数十年間に渡る暴飲暴食により、通風に苦しめられるようになった。とても痛みを伴う痛風は容赦なく彼を攻撃した。この通風による激痛のために、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、常に不機嫌に悩まされた。何十年もの間、さんざん苦しめ続けられ続け、険悪な夫婦関係であったとはいえ、通風の激痛に苦しむ夫の姿を見て、さすがにゾフィー・ドロテアの心にも、哀れさと同情を誘ったのか、この一七三三年の二月から、これまでとは打って変わって、夫のことを、大変に気遣っている。

そしてゾフィー・ドロテアは、本当に熱心に、彼女の夫ヴィルケ(ヴィルヘルムの愛称)の世話をした。また、このように病気で気が弱くなっていた彼も、目に見えて妻を頼るようになっていった。

しかし何度も、フリードリヒ・ヴィルヘルムの容態は、回復した。

例え通風の激痛に苦しめられ続ける、かなり悲惨な状態のままだとしても。

しかし一七四〇年の春には、彼の力は、ようやく全て燃え尽きた。

 

 

そして、彼は自分に残された日数を数え始めた。五月三十一日の夜、彼は彼の子供達と使用人から隠されて、妻とだけ一緒にいた。

フリードリヒ・ヴィルヘルムは、五十一歳で、ポツダム宮殿で午後三時から四時の間に、妻の王妃ゾフィー・ドロテアに見守られながら死去した。

六月五日に、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世は、ポツダム駐屯軍教会に埋葬された。そして彼女の夫よりその後十七年だけ長生きしたゾフィー・ドロテア。

王太后としての彼女。

こうして宮廷の全ての尊敬と敬意が、彼女に寄せられることとなった。

この誇り高いヴェルフェン家の女性が常に予想していた。その時ようやく、ゾフィー・ドロテアは、これまで夫の前で身を縮めている「フィークヒェン」から、アレクサンドロス大王の栄光の王母オリンピュアスとなった。食事。コンサート。レセプション。

そんな場所は、どこにもなかった。

彼女が彼女の息子の国王フリードリヒによって招かれなかった所。

そして新しい王妃エリーザベト・クリスティーネが、ほとんど彼女の夫の視野から追い出されている間。

このように、フリードリヒの国王即位と同時に、突然夫から疎外されるようになり、ついには別居まで余儀なくされるようになってしまった、王妃エリーザベト・クリスティーネの宮廷での存在感は、自然と薄れていった。

彼女が夫と離れて専ら暮らす場所となったシェーンハウゼン宮殿では週に一回、そしてベルリン滞在中はモン・ビジュー離宮で二回パーティーを開いたが、やはりこうした境遇にある王妃の彼女が催すものということで、ひっそりとしたものになりがちであり、王太后であるゾフィー・ドロテアの催すそれの方が、華やかなものになりがちであった。

 

 

今やベルリン宮廷の最も重要な女性は、王妃エリーザベト・クリスティーネではなく、国王の母のゾフィー・ドロテアだった。

晩餐会、レセプションなどの彼女の好きな数々の催し事。

ゾフィー・ドロテアは本当に幸せであった。もう夫によるいかなる抑圧もなく、こうして息子のフリードリヒは国王となり、彼や宮廷中から払われる、王太后としての敬意とその栄光ある立場。

そしてそんなゾフィー・ドロテアの死は、突然に訪れた。

一七五七年六月二十八日のレーンドルフの日記によると、王太后ゾフィー・ドロテアは、亡くなるつい前日の夕方までは、ごく普通に、女官のフロイライン・ブレドウとクネーゼベックと食事をしていた。

そして夜の八時にお茶を要求した後、彼女は突然亡くなったという。

王大后ゾフィー・ドロテア。プロイセン国王フリードリヒ二世の母で、イギリス国王ジョージ二世の妹。そしてその強い誇りに生きた彼女。妻としては大変に不幸ではあったが、息子は彼女の生前から既に、各大国を相手に回して戦い、オーストリアからはシュレージエンを獲得し、こうして歴史に名を刻むこととなり、母親としては栄光ある人生であったと言える。