この年の10月に13歳になる長男

のフリードリヒ・ヴィルヘルムは、

なかなか厄介な子供だった。

 兄弟姉妹達の中では最も天分に恵まれて

おり、ルイーゼにとっては最愛の子供では

あったが。

 神経質、激しやすい、怒りを抑えられないという面を持っていた。

 家庭教師のデルブリュックは穏やかで学識ムある人物だったが、教え子と口論になる事も

あった。

 フリードリヒ・ヴィルヘルムは、

敏感で情緒不安定で、心配をさせる面を

持っていた。

 長男について、両親は頭を悩ませていた。

 

 

 これに対して息子は、怒りと反抗で

応じていた。

 2人の間で息子の教育方針について

話し合われた後、彼らはヨーハン・ペーター・アンションという人物に一筋の光明を

見出した。

 彼はベルリンに住む、フランスの説教師

だった。

 デルブリュックとアンションの2人に、

フリードリヒ・ヴィルヘルムの教育に

当たってもらう事になった。

 

 

 1810年の3月、

ルイーゼの誕生日を祝って、妹のフリーデリーケがベルリン宮殿を訪れた。

3月10日のルイーゼの34回めの誕生日には、王妃の誕生日を祝って白く塗られた

ベルリン宮殿の大広間で、舞踏会と晩餐会が

催された。

 国王夫妻の友人達が、続々と招待客として

 

訪れた。

きらびやかな大広間で無数の蝋燭に囲まれた

オーケストラが、ポロネーズを演奏した。

 またクライストはルイーゼの誕生日に

以下の詩を捧げている。

「君の頭は光で輝いているように見える

君は華麗に輝き始めた星

暗い嵐の雲を突き破って」

 

 1810年の5月20日、

ルイーゼは再び夏の間を、パレツ宮殿で

過ごすようになっていた。

この頃のルイーゼは、ひどくメランコリックな気持ちに陥っていた。

 ルイーゼは、疲れ果てていた。

 侍医のフーフェランドはルイーゼに、

再びバートピュルモントでの鉱泉飲料療法を

勧めた。しかし、この時バートピュルモント付近には、ナポレオンの弟ジェロームが

姿を現わしていた。

 ルイーゼは弟のゲオルクと妹のフリーデリーケに宛てて、こう書いている。
「私は昼食を済ませた後、人々が来るまで昼寝をしていました。その後は読書をして過ごします。どうやら私は、痩せてしまったようです。

この頃はベッドに臥せっている事が多いです。

そしてぐっすりと眠ってから目覚めます。」

 

 

 国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は

1810年に、シャルロッテンブルク宮殿内に

ルイーゼが寛ぐための部屋を新たに増築させる事にする。

 そして若い彫刻家兼画家のカール・フリードリヒ・シンケル(1781―1841)に

増築を依頼する事にした。

 

 

 1810年の6月、夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムが、久しぶりに、ノイシュトレーリッツのルイーゼの父を訪れてみたらどうか?

と提案した。

 もちろん、ルイーゼは喜んでこの提案を

承諾した。

ルイーゼは「私は神と国王にこの感謝の念を

捧げます。」と言って、ノイシュトレーリッツの父と会える事を喜んだ。

 

 ルイーゼのプロイセン王妃になってからの

数年間は、ナポレオンとの戦いの苦労の連続であった。そしていつしか度々喘息の症状に

悩まされるようになっていった。

 6月26日にルイーゼはノイシュトレーリッツを旅行し、28日にノイシュトレーリッツ

宮殿に到着した。

 ノイシュトレーリッツ宮殿に、

父のメクレンブルク公爵カールと妹フリーデリーケ、弟達のゲオルクとカール、友人のカロリーネ・フォン・バーグ、祖母ゲオルク公爵夫人もいた。

 ルイーゼにとって、久々に気の置けない人々との嬉しい対面であり、彼らとの楽しいおしゃべりに興じた。

 その後彼らは、夏の離宮として使用していたホーエンツィーリッツ宮殿へと移動した。

 だが、その内ホーエンツィーリッツ宮殿で

過ごしていたルイーゼに、明らかに呼吸困難の

症状が現れ始めた。

 ルイーゼの異変の報せを受け取ったプロイセン国王と長男フリードリヒ・ヴィルヘルムと

次男のヴィルヘルムは19日の早朝に、

ノイシュトレーリッツ宮殿近くの、

ホーエンツィーリッツ宮殿に駆けつけた。

 ルイーゼは高熱を訴えた。

 1810年7月19日の朝、

ついに覚悟を決めたフリードリヒ・ヴィルヘルムは「君は私の生涯での大切な友だった、

君の表情はいつでも生き生きとしていたね。」

と言った。

 ルイーゼは「私の愛する友、良き、、あなたが共に人生を歩んでくれあなたの存在が何度も

私の慰めになってくれました。」 と言った。

「私の無二の友よ。」

「今後のあなたの事を考えていました、

もうすぐ私は国王と子供達を残して死ななければなりません!!」

 

 

 

 1810年7月19日にルイーゼは、

ホーエンツィーリッツで死去した。

 享年34歳。

 

 後から残りの子供達のシャルロッテと

カールが駆けつけた。

 ルイーゼ臨終の時の様子について

ゾフィー・フォン・フォスは

こう語っている。

「不幸な国王は声を上げて泣いていました、

お子達とその他の人々も。」

 王妃が亡くなってからの宮廷は、

まるで火が消えたかのような淋しさだった。

 7月30日、ルイーゼの遺体はベルリンに

運ばれ、ベルリン大聖堂に埋葬された。

 

 ルイーゼの遺体の調査結果、

肺に潰瘍が心臓にはポリープができていた

事が発見された。

 明らかに10回の妊娠・フランスとの戦争・2年間に渡る逃亡生活が、

ルイーゼの身体を蝕んでいたのだった。

 王妃のあまりにも早過ぎる死を、

国民達も心の底から悲しんだ。

 特にプロイセンの愛国者達は、

王妃ルイーゼは祖国プロイセンの崩壊と

消滅を瀬戸際で食い止めたと褒め称えた。

 フリードリヒ・ヴィルヘルムは、

プロイセンの国民達から深く愛された

妻の王妃ルイーゼを称え、

急遽ルイーゼが気に入っていたシャルロッテンブルク宮殿の敷地内への、ルイーゼの霊廟建造を建築家ヨーハン・ハインリヒ・ゲンツに

命じた。ルイーゼ王妃の彫像の方の製作は、

シンケルに依頼した。

 1810年の6月23日には、

ブランデンブルク州にある町グランゼーの

広場にルイーゼの記念碑が建造された。

 1810年12月13日、

シャルロッテンブルク宮殿内に

ルイーゼ王妃の霊廟が建造される。

 

 

 

 

 

 

 

 

ルイーゼ王妃の霊廟
ルイーゼ王妃の霊廟
ルイーゼ王妃の彫像
ルイーゼ王妃の彫像
グランゼーのルイーゼ王妃記念碑
グランゼーのルイーゼ王妃記念碑