ヘンリエッテも夫のヘルツも、

1780年代と1790年代に成立した様々な

文学グループの会員だった。

1782年頃には、ユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの長女で、ヘンリエッテの幼い頃からの

友人だったドロテア・ファイト(シュレーゲル)や、

そして1783年には、バウアー宮廷顧問官夫人

の許でも生まれている。

そして1780年代の終わりには、

「小さなお茶会」が成立した。

ヘルツ夫妻が所属していた最も重要な読書協会

は、1796年にイグナーツ・アウレーリウス・フェスラーが設立した「水曜会」で、この会は何回も復活を繰り返し、20世紀まで続いた。

初期の主な会員には、ゴットフリート・シャドー、

美術史家アーロイス・ヒルト、物理学者のフィッシャー、俳優フェルディナント・フレックらがいた。

この水曜会では、読書会の他に、会員が様々な

専門領域について話す講演も 行なわれた。

様々な特徴を備えた読書協会は、ヘンリエッテ・ヘルツのサロンを発展させるのに、根本的に重要なものであった。

例えば水曜会については、ヘンリエッテは次のように強調している。

「フェスラーの協会メンバーの多くが、私達の家に来られましたし、知的分野で高名な遠来の方達の

ほとんど全てが、私達の家においでになりました。

このような恵まれた状況の下で、我が家の集いが

できあがっていきました。我が家について、

誇張を抜きにしてこう申せましょう。この家は

しばらく経つと、ベルリンで最も名声の高い、

最も訪問客の多い家の一つになった、と。」

実際にも、フェスラー、ドロテア・ファイト、バウアー枢密顧問夫人ら、読書協会に所属する著名人達と

、ヘンリエッテ・ヘルツのサロンの訪問客達は、

重なり合っていた。

その中の主要な人々には、プロイセンの王太子

フリードリヒ・ヴィルヘルムや王子ヴィルヘルムの教育係で後にプロイセンの外務大臣となった

アンション、デンマーク外交官で、後にプロイセンの

外務大臣になる、ベルンシュトルフ伯爵、フンボルト

兄弟、ヘンリエッテ・ヘルツと文通をしていた

女性作家ゾフィー・フォン・ラ・ロシュの息子カール・フォン・ラ・ロシュ、作家で外交官だったクリスティアン・ヴィルヘルム・フォン・ドームなどがいた。

 

 

 

 

 

読書協会は、とりわけ人々の知的教養を高めるのに貢献した。 この読書協会では、参加者達が

本の朗読を行い意見の交換をするのみではなく、

劇や音楽の上演や、学問的な講演なども

行われた。このような人々の集まりは、

1810年まで大学がなかったベルリンにおいて、

学問を通じて人間形成を行う公共の場所として、

機能していた。

1787年頃、ヘンリエッテ・ヘルツを中心として、

会員の心の修養と道徳的完成を第一目標とする

別のサークルの、「美徳同盟」が結成された。

このメンバーには、ドロテア・ファイト、その妹の

ヘンリエッテ・メンデルスゾーン、フンボルト兄弟、

カール・フォン・ラ・ロシュ、更にシラーの義理の

姉妹カロリーネ・フォン・ヴォルツォーゲン、

作家テレーゼ・フォルスター=フーバー、後に

ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの妻となる

カロリーネ・フォン・ダッヘレーデンなどがいた。

ヘンリエッテ・ヘルツは、この会の目標設定を、

次のように要約している。

「一種の美徳同盟であるこの会の目的は、

互いに道徳的精神的に養成し合う事、骨身を惜しまぬ愛の実践でした。」

そして規約が作られ、会員達の間では、

独自の暗号が使われていたと、彼女は言っている。これは、いろいろな面でフリーメーソンの結社を

連想させる。「キリスト教的愛の実践」、魂の探求、相互の道徳的強化といういくつかの要素は、

、神秘主義から来たようである。

会員達は親密な二人称であるドゥーで呼び合い、

長い手紙を書き合い、互いに秘密を持たない事を

誓った。そして重大な悩み事についても相談し合った。しかし、一、二年後には、「美徳同盟」の存続は、現実には無理だという事が早くも明らかに

なっていった。会員達は、例えどんなに誠実な意識を持っているつもりでも、なぜ美徳同盟に関心を

持つのか、意識下にある自分達の気持ちを、

はっきりと自覚していなかったのである。

 

 

 

 

結局、既婚や未婚の若い女性達の場合は、

親密に付き合いたい、世界改良を目標に掲げる

高潔な「規約」をまとめようといじり回すのが楽しい

という小娘気分がどこかにあったし、またヴィルヘルム・フォン・フンボルトやカール・フォン・ラ・ロシュら男性メンバー達の方の何人かは、

初めの内は美貌のヘンリエッテに対して熱烈な

崇拝の念を抱いており、それは友情を賛美する

彼女自身が認めていた以上に熱い思いだった。

しかし、間もなくこのような男性会員達の熱狂的な

気持ちが衰え、それにつれて美徳同盟への関心も

薄れていった事を、この会の結成に中心的な役割を果たしたヘンリエッテ・ヘルツも、認めざるを

えなかった。これらの諸原因から、

結局、1790年から92年までに美徳同盟は

解散する運びとなった。

特に、この頃の男性会員の1人だった、

ヴィルヘルム・フォン・フンボルトにまつわる

印象的なエピソードとしては、次のような話がある。

以前はヘンリエッテに思いを寄せ、崇拝の気持ちのこもった熱烈な手紙まで彼女に宛てて書いて

いた彼だったが、その後このサークルでカロリーネ・フォン・ダッヘレーデンと恋に落ち、

ついには結婚する事となった。このような心境の

変化も、このサークルに対する

彼の関心が薄れていくのを、促進させたようで

ある。 しかし、美徳同盟は解散したとはいえ、

この同盟を通じ結ばれた友情の多くは、

それからも長い間続いた。

この美徳同盟は、当時流行していた

「感傷主義」の上に形成されたものだった。

更に、このような形で解散したとはいえ、

このグループの活動は、誠実で真剣な努力が

特徴で、目標設定や実際に遂行した事は、

夢物語じみていたにせよ、単なる感傷的な行動

では、片付けられないものがあった。

会員達は、精神的道徳的修養を目指し、

ひたすら励んだ。

「美徳同盟」は、完全に自由で束縛されず、

しかも規則的にひらかれる高尚な内容の

集いができるかどうかを試みた、

一つの実験だった。

(しかし、美徳同盟や、読書協会では、

それが実現不可能であるという事が、

明らかになった。

結局そのような人々の要求にも応える事ができ、

両方の利点を合わせ持つ事ができたのは、

サロンであり、改めて当時のサロンの存在の利点

及び重要性やその特有の価値が認識できる。

サロンは内容に関して自由であり、

形式的には、1人の教養あるサロニエールという

人間にだけ結ばれていたからだ。

サロンには、時間とその気になった時にだけ、

行けばよかった。決まった「プログラム」が

期待される事もなかった。

自発的である事と偶然によって組み立てられていく事こそ、サロンの魅力だったのである。)

 

 

 

 

 

その実験が失敗に終わったのは、実践困難で

現実離れした所があった、美徳同盟の目標が、

少し長い目で見れば実践不可能な事だったからだ。それにこの結社の若い会員達は、

この後それぞれ更に成長していった。

ヘンリエッテ・ヘルツの最大の功績は、

何よりも、ベルリンにおいて「サロン」という形式で

高尚な内容の文学的集いができる事を示した事

にある。

当時、ヘンリエッテのサロンでは、

ドイツ古典主義の作品や初期ロマン派の理念、

ソシテ新人道主義の思想に関心が集まっていた。

ヘンリエッテ自身は1797年頃、アレクサンダー・フォン・ドーナ伯爵との友情や、その彼の師である

シュライアーマッハーとの交友を通じて、

自身の「古典期」という成熟へと辿りついていた。

そして1802年から1803年にかけて、

ドーナ伯爵とシュライアーマッハーがしばらく

ベルリンを去った。更に1803年には、

夫のヘルツが56歳で死去した。

ヘルツの死後、ドーナ伯爵はヘンリエッテに求婚

したが、ヘンリエッテはこれを断った。

しかし、彼女が求婚を断ってからも、

ドーナ伯爵との友情は続き、より強固な精神的

結びつきを促した。

一方、ヘンリエッテの精神的発展にとっては、

シュライアーマッハーとの友情の方が、

遥かに注目される。

シュライアーマッハー当時自分の全著作について

ヘンリエッテと討議したり、また彼女を励まし、

文学的創作やイギリス文学の翻訳を勧めた。

ヘンリエッテはシュライアーマッハーから

受けた知的な影響を生かす事ができたし、

シュライアーマッハー自身もヘルツ家で

文学的創作や神学的哲学的創作にとっては

好ましい精神的環境と刺激を見出していた。

また、ヘンリエッテはシュライアーマッハーの

知性や学識だけでなく、その人柄についても、

心の底から善意の人と称賛を惜しまなかった。

また、彼女はどちらかというと長身でふくよかで

肉付きが豊かだったのに対し、シュライアーマッハーの方は、反対に小柄で痩せていた。

人々は、二人の様子が正反対で好対照なのを、

面白がったという。 なお、ヘンリエッテ・ヘルツの

サロンや彼女が関わったサークルで知り合い、

その後結婚した男女が、数人存在している。

共に彼女にとっては友人の、フリードリヒ・シュレーゲルとドロテア・ファイト、ゴットフリート・シャドーと

マリアンネ・デビデル、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトとカロリーネ・フォン・ダッヘレーデンなどである。しかし、ドロテア・ファイトの結婚の場合は、

彼女が当時すでに銀行家のジーモン・ファイトと

結婚しており、二人の子供もいる事から問題と

なった。

ドロテアはヘンリエッテと同じく、ユダヤ人の慣例に

従い、非常に早くに親の決めた結婚相手の彼と

結婚させられていた。

ジーモンは風采も上らず、才気に乏しい

男性で、反対に才女だったドロテアは味気ない

結婚生活を送っており、ヘンリエッテも彼女の様子について非常に不幸そうに見えたと回想しており、

見かねた彼女は、離婚を勧めた事があった。

ドロテアも、一時はその考えがよぎらなかった事もないではなかったようだが、父親の心痛を考えて、

この提案を、退けていた。

しかし、ヘンリエッテのサロンでフリードリヒ・シュレーゲルと出会い、愛し合うようになってからは

いよいよ結婚生活が苦痛になっていった。

それを見て、彼女の友人達でサロンの仲間でも

あった、ヘンリエッテとシュイエルマッハーは、

ドロテアの離婚とシュレーゲルの結婚を擁護し、

愛情のない結婚生活を続ける事は、

破綻した結婚を離婚という形で決着させる事よりも

不道徳だと言って、擁護した。

そしてドロテアの離婚にとっては、

大きな障害の一つになると思われた

彼女の父親もすでに亡くなっていた事もあり、

ついにヘンリエッテが仲介に立ち、

ドロテアは夫と離婚の交渉に入った。

しかし、表面的には夫婦仲には何の問題もなく、

円満に見えたため、夫のファイトはヘンリエッテの

話に、耳を傾けなかった。

彼は妻の長年の苦悩に気づかず、

妻は結婚生活に満足しており、自分達夫婦は

うまくいっていると信じて疑わなかったのである。

しかし、ヘンリエッテが妻ドロテアの長年の結婚生活の悩みについて彼に訴え、表面だけではなく、

彼女の内面もよく見るようにして欲しいと頼んだ。

妻の苦悩を知ったファイトは、最終的に離婚に同意し、子供はドロテアが引き取る事となった。

しかし、結婚した後も、シュレーゲルになかなか

定職が見つからず、二人が困っていた時には、

彼は財政的な援助もしてやるようにまでなった。

 

 

 

 

 

1800年頃になっても、ヘンリエッテ・ヘルツの

サロンは、ベルリンで最も著名なサロンであり続けた。ヘルツ夫妻はこの頃、なお多数の客と旅行中の有名人、例えば当時の人気作家であり、

プロイセン王妃ルイーゼやその妹のフリーデリーケなどの、プロイセン宮廷の女性達など、王族や貴族の女性達に愛読者が多かった、ジャン・パウルや、

ナポレオンの政敵として、フランスを追われ、

当時ドイツに亡命中だったスタール夫人なども

自宅に招いている。

また彼らの他にも、ヘンリエッテはレオポルト・フリードリヒ・ギュンター・フォン・ゲッキングを通じ、

作家エリーザ・フォン・デア・レッケと知り合い、

その異母妹であるドロテア・フォン・クールラント

公妃と知り合い、更に詩人クリストフ・アウグスト・ティートゲとも知り合った。

しかし、この時期から親しい友人との交際や

夫ヘルツの健康状態の配慮で忙しくなった

ヘンリエッテにとっては、サロンは最大の関心事ではなくなり、夫の死後その集まりも縮小された。

おそらく、良い刺激となっていたと思われる、

夫ヘルツの学問的サロンと妻ヘンリエッテの文学的サロンの刺激的対立が存在しなくなったためだと

考えられる。また、財政状態も、関係して

いた。当時、ヘンリエッテ・ヘルツの学識が

高く買われ、プロイセン王家の小さな王女達の教育を引き受けるようにという申し出もあったが、

彼女はこれを断った。

この場合公にキリスト教に改宗しなければならなかったし、当時まだ存命で頑固に自分の侵攻のユダヤ教を守っていた母に対する、崇拝の念からも、

この改宗は、できない事であり、この申し出を

断らざるをえなかったのである。

しかし、ドロテア・フォン・クールラント公妃の

末娘に定期的に英語の授業を行なってはいた。

クールラント公妃は、1803年以来ベルリンに

住み、ウンター・デン・リンデンの宮殿にサロンを開き、ヘンリエッテ・ヘルツとその集いを共に引き入れた。そしてこのサロンで、ヘンリエッテはルイ・フェルディナント王子と姉のラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケと知り合った。

1806年の、イェーナ・アウエルシュテットの戦いでフランスにプロイセンが大敗したため、

一時的にヘンリエッテ・ヘルツはサロンを閉鎖せざるをえなかった。これによりささやかな彼女の寡婦年金の支払いも、当分の間中止されてしまい、

ヘンリエッテは生活のため、親しい家の家庭教師としてリューゲン島に赴かなければならない程、

切羽詰った財政状態になってしまった。

プロイセン政府の財政状態とヘンリエッテの財政状態が再び安定した後の1810年頃、ヘンリエッテはベルリンに戻り、再度評判の良いお茶会を開いた。

そしてこの1810年の年の、ヘンリエッテの重要な

出会いとして、ゲーテとの出会いが挙げられる。

彼女がドレスデンに滞在中に、セピア画家のザイデルマン夫人主催のある夜会で出会っている。

ヘンリエッテは、たちまちゲーテの文学を崇拝する

ようになり、最も敬愛する詩人としても、やはりすでに出会っていたシラーと共に、名前を挙げている。

ヘンリエッテ・ヘルツのサロンでベルリンにおける

ゲーテ信仰が始まり、他のサロンでもこれが続く事になる。

 

 

 

 

次の10年間には、ヘンリエッテは多くの旅に出た。

そしてベルリンサロンは完全に閉鎖し、

1820年代以降は、特に限られた交友関係の中で生活し、様々な慈善活動を行なった。

例えば無料で貧しい子供達に授業を教える、

週に一度は困窮学生に無料の昼食を提供したりなど。そして1847年に、ベルリンで83歳という

高齢で、この世を去った。そしてその人生の終焉においては、かつて自宅で夫ヘルツと共に、実験を

見せた事がある、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の訪問を受けている。

ヘンリエッテ・ヘルツは、ロマン派の人々がラーエル・ファルンハーゲンにおいて評価したような

天才的な「独自性」は持っていなかったが、

高い教養もあり六ヶ国語以上を操る語学力が

あった。そして、例えば女優のカロリーネ・バウアーに代表されるような人々には、ヘンリエッテ・ヘルツの控えめで、思慮深い判断力の方が、

ラーエル・ファルンハーゲンの才気溢れるような、

だが時々わざとらしい言い回しよりも好ましく

思われていたのである。