このように、プロイセンは「解放戦争」を経て、フランスの占領から解放される事となった。

しかし、この間のフリーデリーケ達一家の生活は、苦境に立たされ、夫婦の関係も、

崩壊へと向かっていたのである。

ブレスラウの司令官に任命されていたソルムス

だったが、1809年に国王一家がベルリンに

帰還すると、この仕事を失ってしまう事になった。そして、ただでさえソルムスの俸給も

それ程高いとは言えず、一家の経済状態は大変厳しく、子供達の教育費さえ、全てフリーデリーケの年金から支払わなければならなくなってしまう。この一家の苦境を見て、カールは

引き続き、ノイシュトレーリッツ宮殿を

家族の住居として提供してくれた。

フリーデリーケは、父のこの心遣いに深く

感謝した。

だが、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は、フリーデリーケを見かね、

離婚を勧めた。

しかし、フリーデリーケは拒否した。

だが、夫婦関係は悪化するばかりであった。

ある時などは、夕方にフリーデリーケが

客人達を招いた集いの日に、

彼はどこかへ姿を消してしまっていたので

ある。フリーデリーケは、この夫の仕打ちに、

妻として深い恥辱を味わわされた。

このように、ソルムスは妻に対する敬意さえ、

払わなくなっていたのである。

 

1812年の1月27日に、息子のカール・ルートヴィヒが生れたが、結局この子供の誕生も、夫婦関係を改善する役には立ってくれなかった。

ソルムスはノイシュトレーリッツでの現在の

生活に苦悩し、生活の退屈さ、そしフリーデリーケの年金の支給額が少な過ぎると不満をこぼした。また、このようにノイシュトレーリッツでの亡命生活に適応できない彼は、

苦悩からしだいに飲酒量が多くなり、

通風にも悩まされるようになっていた。また、度々憂鬱な気持ちに陥るようになった。

また、ソルムスがテプリッツの保養地ヘ

行く費用で更に、一家の財政に負担がかかった。

また、ソルムスはフランス人とナポレオンの

集会に喜んで参加するようになった。

これは、当然の事ながら、カールやフリーデリーケ他、多くの人々に不快の念を起こさせ、

これがまた夫婦の溝を深める事となった。

しかし、このソルムスがナポレオンへと傾倒していくまでの心理の変遷は、彼自身に関する

史料が少ないため、不明確な所がある。

 

 

フリーデリーケは、前半の幸せな結婚生活から一転した、不幸な結婚生活に悩み、

嘆いた。ナポレオンのアンスバハ侵攻から

プロイセンに亡命してからの七年間、

妻として夫のソルムスを支えてきたフリーデリーケだったが、もう夫との結婚生活への忍耐も、限界に達していたのであった。

もはや、夫からは自分に対する愛情を感じる

事ができなくなっていた。

また、子供達の将来に関する不安も募っていた。

このように、悩み多い結婚生活を送っていた

フリーデリーケだったが、彼女にとって

大きな転機となる、偶然の出来事が起こった。

1813年の5月21日に、フリーデリーケにとってはいとこに当る、ジョージ三世の五男の、42歳になるカンバーランド公爵エルネスト・オーガストと出会った。

彼は、叔父に当る、フリーデリーケの父カールに会いに、ノイシュトレーリッツに来ていたのであった。

エルンスト・アウグストは、かつてフリーデリーケがバートピュルモントで、結婚を前提に会った、ケンブリッジ公爵アドルフの兄だった。

フリーデリーケと彼は、長時間話し、フリーデリーケは彼に好感を抱いた。

そして、この彼との出会いが、フリーデリーケがソルムスとの離婚を決意した、決定的な理由になった。

 

 

 

結局、1813年の10月に、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムとフリーデリーケの父カールも了承の許、離婚訴訟が始められた。

話し合いの結果、子供達の保護権は、フリーデリーケのものになった。

そして夫婦は、12月から別居する事になった。

これが、十数年間の結婚生活の終了だった。

それから四ヵ月後の1814年の4月13日、ソルムスがシュレージエンで、

44歳で死去した。

 

カンバーランド公爵エルンスト・アウグスト
カンバーランド公爵エルンスト・アウグスト