1807年の4月、メーメルで

フリードリヒ・ヴィルヘルムと

アレクサンドルは会った。

 その後バルテンシュタインで

プロイセンとロシアの全権大使が、

両国間の連携強化の条約に調印した。

 条文の内容は、プロイセン再興、

ライン同盟の廃止、フランス軍の国内撤退

というものだった。

 しかし、オーストリアとイキリスは、

条約加盟を拒否した。

 1807年の6月14日、

プロイセン・ロシア連合軍と

フランスとの間でフリートラントの

戦いが行われた。

 ベニグゼン将軍率いる大軍は、

大敗した。

 明らかなロシア・プロイセン側の

敗北だった。

 

 

 それからその後の6月21日に、

ロシアの方からティルジットでの

講和の提案が持ち出された。

 しかし、ナポレオン側の条件としては、

その際にかかる費用は、プロイセンの負担で

という条件だった。

 

 

 1807年6月26日、

ティルジットのニェーメン川に小舟を

浮かべ、その川の中間点に筏が繫がれ、

その筏のそれぞれフランス側とロシア側の

方角に張られた天幕には、ナポレオンの

「N」とアレクサンドルの「A」という

頭文字が使用された。

 プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルムの頭文字は、意図的に省略された。

 彼だけは雨のそぼ降る中、

ニェーメン川の右岸に取り残されたまま、

会談への参加は許可されなかった。

 ナポレオンとアレクサンドルの

会談は、この筏の上の天幕の中で

行われる事になった。

 抱擁し終えた後、アレクサンドルは

開口一番「あなたがイギリス人を憎んでおられるのと同様に、私もイギリス人を憎んでいます。彼らに対してあなたが起こす行動の全てについて、私は助力を惜しまぬつもりです。」

とナポレオンの歓心を買う台詞を口にした。

 これに対しナポレオンも「それで全てが

上手くいくでしょう。和平は成立したも同然です。」と応じた。

 2人は連日馬で遠出をしたり、共に晩餐会で

食事を共にしたりした。

 ナポレオンはアレクサンドルに大変に

好感を持ち、ジョゼフィーヌに宛てて

彼の印象をこのように書いている。

 

 

 「アレクサンドル皇帝に会った所です。彼には大変満足しています。非常な美男で、

善良な青年皇帝です。世間で言われているよりも、頭は良さそうです。まるで小説の主人公のようです。パリの伊達男としても、充分に通じるでしょう。」

 しかし、やや初対面の時の感激も薄れてくると、ナポレオンはアレクサンドルに対し、

より厳密な観察と考察を経て「アレクサンドルは優しく柔軟性があり、追従に動かされやすく、また経験も欠いており、理性よりも感情に基づいて行動する事が多い、しかるにフランスはこの多感で御しやすい君主と結ぶ事により、

大きな利益を得るだろう。」という結論を下した。しかしアレクサンドルはナポレオンに対して、本心からの友情など抱いてはいなかった。

 

 

 彼は幼い頃から、己の本心を韜晦する術に

長けていた。生まれついての演技者で、

その人当たりの良い魅力的な振る舞いの裏で、

巧みに自分の本心は隠し通した。

 アレクサンドルはナポレオンと友好的な

関係を作る傍ら、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムに対して次のような手紙を書き送っている。

「辛抱する事です。我々が失なったものは、

やがて取り返しましょう。彼は自分で墓穴を

掘るでしょう。私がどんな風に友情を誓おうが、外面を取り繕おうが、心の底では貴方方の友人であり、いつの日か行動によりそれを証明できるものと、期待を抱いています。」

 翌日にはフリードリヒ・ヴィルヘルムも

参加を許されたものの、彼の同席している時には、一向に具体的な事は話し合われなかった。

 プロイセン国王はナポレオンによって、

全く無価値な存在のように扱われた。

 一方、ナポレオンとアレクサンドルの間では、今後の領土の分割を巡る話し合いが進められていた。しかしその内容は全く当事者達にしかわからない内容であり、プロイセンにも

一切知らされる事はなかった。

 謎の会談の後、ついに条約が締結された。

カッタロ南とイオニア海はフランスに返還される事になり、ヨーロッパ西部もフランスに

譲られた。そしてその代わりにロシアは

バルト海、バルカン東部、ボスフォラス、

ダーダネルス海峡一帯、小アジアにおける

行動の自由を確保した。

 

 

 アレクサンドルは、今回の事態がどれ程

困難なものかを十二分に理解していた。

しかし、相変わらずルイーゼは無邪気にも、

今度もアレクサンドルがプロイセンのために

便宜を図ってくれると信じて疑わなかった。

 プロイセン国王夫妻は、ロシアがプロイセンの有利になるように動いてくれると信じていた。

 すでにこの頃ナポレオンとフリードリヒ・ヴィルヘルムの間で、新たな交渉の日取りが検討されていたのかもしれない。

 しかしプロイセン国王は怒りっぽく、近寄り難く頑固だった。

 このため、プロイセンでは彼は、困難が予想される、これからの非常に厄介な協議の相手には不適当と見なされていた。

 外務大臣のハルデンベルク侯爵が、

その美しさで多くの人々を魅了してきた

ルイーゼ王妃の魅力で、ナポレオンを軟化させられるのではと国王に進言した。

 

 

 

ハルデンベルクによりこの会談が計画される

約二ヶ月前の、1807年の5月19日に、

ルイーゼは危機的状況にあるプロイセンの改革を、一刻も早く進めるべく、当時亡命中だった

ハルデンベルクに、ケーニヒスベルクから次の

手紙を書いて、彼の帰還を求めていた。

「親愛なる男爵、私は喜びと穏やかな気持ちで

一杯です。国王とあなたの会合により、

国王がより良い選択と決定をしてくださる事になると、確信しているからです、

これからのプロイセンの君主制の新しい時代の

ために、どうかお戻りください。」

 

 

 

当然ながら、このナポレオンとのティルジット

での会談の提案を聞かされたルイーゼは驚愕した。

彼女にとってはナポレオンとの交渉など、

思いもよらない事だった。

 ルイーゼは常々、ナポレオンの事を「怪物」・「この世の災厄」・「悪の源」と呼んで嫌ってきたのである。

 だが今回の交渉は、まさに国家プロイセンの

存亡がかかっている事から、とうとうルイーゼは、プロイセンのために自分が犠牲になる事を決意した。

 ルイーゼは「私は死にに行きます。」と

ナポレオンとの会談を決意した時の心境を、

こう日記に書いている。

 国王はルイーゼに、不快な思いをさせる事を詫びた。

 今や美しいルイーゼだけが、頼みの綱であった。

ティルジットでプロイセン王妃ルイーゼを迎えるナポレオン
ティルジットでプロイセン王妃ルイーゼを迎えるナポレオン

「今日、美しいプロイセン王妃と食事をしてくるよ。」

 1807年7月6日、こうナポレオンは

皇后のジョゼフィーヌに宛てて手紙を書いている。

 1807年7月6日、ティルジットの会談が

行われた。

 護衛兵に守られたルイーゼが、

会談場所に到着した。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム三世と

ロシア皇帝アレクサンドル一世は

離れた場所からその様子を見守っていた。

 ルイーゼは、大きな恐怖に震えていた。

 彼女は銀色の装飾が施された縮み織物の

衣服、白いショール、そして真珠の装身具及びに真珠を散りばめた冠状の髪飾りを付けていた。

 2人の会話は、最初は当たり障りのない

テーマから始められた。

 ルイーゼは大きな勇気を振り絞り、

寛いだ楽しげな様子で話しかけた。

その後、ルイーゼはいよいよ肝心の講和交渉について切り出した。

「あなたはどこから見ても、完全な勝者ですわ、私にはあなたにはこれ以上の勝利は必要ないと思われるのですが?」

 ルイーゼはナポレオンに、妻と母としての

気持ちを熱心に語った。

 彼女にとって、夫の国王と子供達の今後が

心配だとも言った。

「私は陛下をご信頼申し上げています、

まさか陛下の口からプロイセンを消滅させる

お言葉が出される事はありませんわね?

私は今、喜びの気持ちで一杯です。

私達のベルリン帰還を認めていただけますわね?」

 それに対してナポレオンは「はい、陛下。

しかしそれはこれからの講和の条件次第です、

場合によっては、プロイセンの破壊に繫がる

可能性も十分ありますよ。」と言った。

 実はナポレオンはこの時、

ルイーゼから女らしい態度でお世辞を言われ、

自尊心をくすぐられていたのである。

 ナポレオンは「あなたのお気に召すままに。」とルイーゼを促した。

 再びルイーゼはナポレオンに、

せめてマクデブルク、シュレージエン、

ヴェストファーレンだけでもプロイセンに

残してくれないかと訴えた。

 しかし、ナポレオンはそれは聞き入れられないと、きっぱりとルイーゼの訴えを撥ね付けた。

 会談終了後、ルイーゼはナポレオンを乗せて

去っていく馬車に向かい「陛下、あなたは残酷なまちがいを犯しておいでです!!」や「陛下、あなたの無慈悲な処置はまちがっています!!」などと叫んでいたという。

 そして更にタウエンツィン伯爵夫人によると、なおもルイーゼは馬車で走り去るナポレオンに向かって「あなたのその笑顔、まるで悪魔のように冷酷に映ります。」とも言っていたという。

 ナポレオンとの会談から戻ってくるルイーゼの様子は、気丈だった。

 なお、ルイーゼとの会談後、

ナポレオンは妻のジョゼフイーヌに宛てて「プロイセン王妃の振る舞いは、とても魅力的だったよ、彼女は必死の媚態を見せていた。

だが、心配する事はない、焼きもち焼きの

ジョゼフィーヌ、私は彼女には心を動かされなかった、あれはどうせ、彼女の演技だろう。」と書いている。

 このように、殊更ナポレオンは

ジョゼフィーヌに対し、自分はルイーゼには

心を動かされなかった風を装って手紙を書いていた。