エリーザベト・クリスティーネに、フリードリヒから、拡張工事を再開させていたシェーンハウゼン宮殿が贈られた。

この宮殿は、バロック様式でエオサンダー・フォン・ゲーテによって建造された。

しかし、夫からの贈り物といえど、この宮殿は実質的にエリーザベト・クリスティーネがフリードリヒと離れて暮らすために贈られた宮殿だった。エリーザベト・クリスティーネは、これ以後のこの宮殿で過ごす孤独な年月の事を「まるで追放者のようです。」と表現した。まさに、ここでの彼女はフリードリヒからの指示と通知を待つだけの、不安な生活だった。一方、フリードリヒの方はプロイセンを強国に押し上げるため、軍事的な事に専念した。そして、エリーザベト・クリスティーネの、母方のいとこである、オーストリアの女帝マリア・テレジアに対し、戦争を起こした。

 

 

エリーザベト・クリスティーネと同名の母方の叔母エリーザベト・クリスティーネは、1708年に、カール六世と結婚していた。

カール六世が1740年に死去すると、マリア・テレジアがハプスブルク家の王位を継承した。オーストリアでは、1713年の国事詔書により、ハプスブルク家の男系断絶の場合には、女系の相続が認められる事になっていた。そしてこれはヨーロッパの列強諸国にも承認された。 しかし、マリア・テレジアが女帝として即位すると、バイエルン選帝侯がこれに異議を唱え、またプロイセン国王フリードリヒ二世は、マリア・テレジアの王位継承を認める代わりに、シュレージエンをプロイセンに割譲する事を要求した。

しかし、マリア・テレジアはこれを拒否した。 これを受けて、フリードリヒは、1740年の12月、 オーストリアのシュレージエンに奇襲を掛け、 占領してしまった。

 

 

第一次シュレージエン戦争の始まりである。 しかし、マリア・テレジアはこれに怒り、来年の春まで、シュレージエンにオーストリア軍を派兵し続けた。だが、最終的にフリードリヒはシュレージエンをプロイセンの領土として獲得する事に成功した。

1741年の11月、オーストリアに対し勝利を納めたフリードリヒがベルリンに帰還すると、人々の熱狂的な歓呼の声に迎えられた。 ベルリンの人々は、次々に祝いの言葉を述べるためにフリードリヒの許を訪れ、また国王一家も、言葉では言い表せない程の喜びを現わした。一方、エリーザベト・クリスティーネは、この日の事について11月21日付けの、兄カールヘ宛てた手紙の中でこう書いている。 「私は、このような時でさえ、心が満たされた事がありません。 私はこの度の国王の勝利を、心から祝福し、喜んでいます。しかし、私は依然としてこの場所に留まっていなければなりません。」

 

 

他の国王一家がフリードリヒと共にシュレージエン獲得の勝利の喜びを味わっている時、エリーザベト・クリスティーネの方は、引き続きシェーンハウゼン宮殿に留まるよう、申し渡されたのである。

1742年の1月6日、エリーザベト・クリスティーネの妹ルイーゼ・アマーリエとフリードリヒの弟アウグスト・ヴィルヘルムが、ザルツダールム宮殿の離宮で結婚した。

しかし、このようにエリーザベト・クリスティーネとフリードリヒの兄弟姉妹間で、何度も親戚関係が結ばれても、プロイセン王家の中で、彼女の待遇が改善される事はなかった。 とりわけ、姑のゾフィー・ドロテアは、エリーザベト・クリスティーネの事を憎んでいた。また相変わらず、義理の姉妹のヴィルヘルミーネやアマーリエ達も冷たかった。

エリーザベト・クリスティーネは、国王一家の祝宴の席から疎外された。

 

 

これが、エリーザベト・クリスティーネにとっての悩みであった。

彼女が公式行事に参加させてもらえる事は、ほとんどなく、プロイセン王家全体から、邪魔者のような扱いをされていた。

このような孤独で辛い日々の中、エリーザベト・クリスティーネはかつて幸福だったラインスベルク宮殿での夫との日々を思い出し、また新たにそのような思い出ができる事を願っていた。 1742年の6月11日、ついにオーストリアとプロイセンの間で、プロイセンのシュレージエン領有を認める、ブレスラウ条約が締結された。

1744年の3月27日、エリーザベト・クリスティーネは、弟フェルディナントに宛ててこう書いている。「私は依然としてこの宮殿で囚人のような日々を送っています。 その間、私は以下のような事を楽しみとして日々を過ごしています。 私は読書を楽しみます、また勉強、音楽、また祭日も楽しいです、また手紙を受け取る事ができた日は、一日中喜ばしい気分です。そして、またあなた方兄弟にこうして手紙を書く時も、楽しい時間です。」事実上、エリーザベト・クリスティーネは、囚人だった。

 

 

フリードリヒの、このような陰険な仕打ちは、まちがいなくエリーザベト・クリスティーネを傷つけていた。

プロイセン国王は、この事に対しての、妻への細やかな配慮と共感が欠けていた。

1745年の夏の終り、エリーザベト・クリスティーネにとって、悲しい報せが届いた。 シュレージエンを巡り、この年に再び行われたオーストリアとプロイセンとの、ゾーアの戦いで、弟のアルバートが20歳で戦死してしまったのである。

エリーザベト・クリスティーネは、弟の死を深く悲しんだ。 アルバートの死に対し、フリードリヒはわずかに妻への細やかな気遣いを示し、10月9日に、こうお悔やみの言葉を述べた。「マダム、私はあなたの弟君アルバートの死を伝えねばならない、アルバート公子、私は彼の死を嘆いている。それは勇敢な戦死だった。 彼は戦いにおいて必要な大胆さを持ち合わせていた。」

フリードリヒが、エリーザベト・クリスティーネに対し、優しさと慰めの入った言葉をかけたのは、この一度だった。

 

 

フリードリヒは、新たにシャルロッテンブルク宮殿の新翼の増築を行う事を決定した。

かつて彼の祖母ゾフィー・シャルロッテが気に入っていたシャルロッテンブルク宮殿の拡長工事は、長い間停止していた。

建設は、建築家でフリードリヒの友人でラインスベルクでの芸術に関する教師でもあった、クノーベルスドルフが行なう事になった。 1746年に、シャルロッテンブルク宮殿の増築が完成した。

宮殿の一階には、エリーザベト・クリスティーネの住居が増築されたが、もちろん、これは妻への思いやりというより、王妃である彼女に対しての、礼儀上からのものであった。 エリーザベト・クリスティーネにとって、相変わらず手紙を書くか、フリードリヒからの指示を待つだけの日々が続いた。

1747年の夏に、サン・スーシ宮殿(無憂宮)と名付けられた宮殿が完成し、 国王一家がこの宮殿を賛美している時、エリーザベト・クリスティーネは再び、シェーンハウゼン宮殿に留まっているよう命令された。

 

 

彼女は、この時の悲しみと傷ついた気持ちを、7月17日の弟フェルディナントへの手紙の中で、こう表現している。

「ここには、何の華やかさもありません、私は、国王の愛情から切り離されています。

私は全ての恩寵と善きものを、失ってしまったのでしょうか?私は、あのラインスベルクでの人々との、和やかな日々を思い出しています、あそこでの日々は、完全に幸福でした。私は、今でも国王を愛しています。

この生涯の中で、彼にこの愛を惜しみなく捧げるつもりでいます。何という深い悲しみでしょう。」エリーザベト・クリスティーネは、七年戦争の頃になっても、夫の自分に対する侮辱がなくなるとは信じていなかった。 このような精神的苦痛をフリードリヒから味わわされ続けた彼女は、その内に極度に嘆き悲しんだりするなど、精神的に不安定になり、また突如激しい怒りを爆発させる事もあった。エリーザベト・クリスティーネに仕え、共に食事をしているレーンドルフ伯爵は、このように嘆き悲しむ女主人の様子を日記に記している。

シェーンハウゼン宮殿
シェーンハウゼン宮殿
サン・スーシ宮殿
サン・スーシ宮殿