1733年の6月12日、ザルツダールム宮殿の大聖堂で鐘の音と祝砲が響き渡る中、エリーザベト・クリスティーネとフリードリヒの結婚式と壮麗な式典が執り行われた。

フリードリヒ20歳、エリーザベト・クリスティーネ17歳だった。

しかし、新郎のフリードリヒの方は、この結婚に対し、露骨に嫌々といった素振りを<見せていた。7月24日、若い新婚夫婦はベルリンに向かった。

エリーザベト・クリスティーネは、自分の新しい故郷が、期待していたものとは違う事に、不安を感じ始めていた。

ヴィルヘルミーネは、この時の彼らの様子について、こう描写している。

「王太子妃は背が高い、彼女の腰はほっそりとしておらず、そのせいで不恰好に見えた。その瞳は淡いブルーをしており、彼女は大勢の招待客達とあまり言葉を交わしていなかった。しかし、その表情は愛らしかった、そして頭の形は良く魅力的だった。

その豊かなブロンドは、自然な巻き毛だった。しかし、彼女の歯がその魅力を損なってしまっている。彼女の歯は黒ずんでいて、均整が取れていなかった。

また、彼女の髪型は興奮の余り、乱れてくしゃくしゃになっていた。

私の弟はいらいらした様子で、最後には彼女について「愚かなガチョウ!!」と大きな声で言っていた。」

 

 

このように、エリーザベト・クリスティーネは、冷ややかな夫と敵意ある義母、そして義理の姉妹達に囲まれるという、同情すべき立場に置かれていた。

彼女にとってこの滞在は、重苦しいものだった。怒りと意地悪で、彼女は迎えられたのであった。実は公女は数年間、発音障害に悩まされていた可能性がある。

更にプロイセンに来た早々、多くの敵意に晒された事による緊張からか、新たによくどもるようになってしまい、そしてそれがまた、彼女の新たな困惑の原因になってしまったようである。その内に、エリーザベト・クリスティーネは、フリードリヒの望む女性になろうと決意する。そうすれば、彼が自分を好きになってくれるかもしれないと思ったのだ。 「美しくて優雅、才気と機知に富み、魅力的」これが、フリードリヒの好む女性だった。 2人の結婚から数日後、今度はエリーザベト・クリスティーネの兄カールとフリードリヒの妹、シャルロッテの結婚式が執り行われた。

 

 

しかし、フリードリヒはノイルッピンの駐屯地に留まり続けていた。

エリーザベト・クリスティーネは、引き続きベルリンに留まっていた。

ウンター・デン・リンデン宮殿で、家族に宛てて、トランブゲームをした事などを書いていた。エリーザベト・クリスティーネは、少しの間、病気にかかっていた。

彼女は吐き気を訴え、ベッドに臥せっていた。エリーザベト・クリスティーネは当時、ベルリンで喜びのない毎日を送っていた。

だが国王のフリードリヒ・ヴィルヘルムは、よく彼女にお愛想を言ったり、好意的に接してくれた。1735年の11月8日には、彼女の病気を妊娠と早合点した彼は、喜びの手紙を送っている。

また、彼女自身ももしや妊娠なのでは?と思った瞬間、その胸は希望で満たされた。

子供こそ、まさしく彼女が待ち望んでいたものだった。

 

 

ところで、以前から取り沙汰される事の多い、一風変わったフリードリヒの結婚生活だが、フリードリヒは若い頃性病にかかり、そのため女性と満足な性交渉ができなくなったのだという説や、インポテンツだった、また、かつては同性愛者だったという説が最も有力とされていたが、いずれも推測の域を出ておらず、確証はない。

結局、妊娠ではなかったと知り、エリーザベト・クリスティーネは大いに落胆した。

しかし、彼ら夫婦の距離がやっと縮まる機会が、与えられた。 1734年の3月、ラインスベルク宮殿を息子夫婦のために、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムが購入した。

エリーザベト・クリスティーネは、この新たな我が家をとても喜んだ。

これで、全ての時間をフリードリヒと過ごせると思ったのだった。

そんな中、彼女の父フェルディナント・アルブレヒトが1735年の9月3日、55歳で死去した。エリーザベト・クリスティーネは、愛する父の死を悲しんだ。

とはいえ、詰まる所、この頃の彼女はフリードリヒの事を、めったにない程愛していたようである。ラインスベルク宮殿改装の方だが、国王の提供資金だけでは足りなくなり、エリーザベト・クリスティーネの持参金とフリードリヒの資金を合わせて供出する事にした。 結局、夫婦がラインスベルク宮殿に移る事ができたのは、1736年の夏の終わりだった。

ラインスベルク宮殿
ラインスベルク宮殿
ヘッセン=ダルムシュタット辺境伯夫人カロリーネ
ヘッセン=ダルムシュタット辺境伯夫人カロリーネ

「私は幸福です、新たに安らぎの場所を手に入れました。花を摘んだりする事もあります。」エリーザベト・クリステイーネにとって、このラインスベルク宮殿で過ごした年月が、その生涯の中で最も幸せな日々となる。 ついに、彼女はフリードリヒと心を通わせる事ができたのであった。

ラインスベルク宮殿の女性達の服は、近代ロココ様式に裏打ちされ、全てが輝かしく、そして軽やかだった。そしてその雰囲気は、煌めく優雅さと生への喜びに満ち溢れていた。 特にエリーザベト・クリスティーネは、この時眩いばかりの幸せに光り輝いていた。

彼女は3年間の努力の末、ようやくフリードリヒの心を掴む事ができたのであった。 

1736年の7月、彼はセッケンドルフ伯爵に宛てて、このラインスベルク宮殿での、妻エリーザベト・クリスティーネとの日々について、こう書いている。

「私はどうやら今まで決してなかった、熱烈な恋をしているようだ、それもまるで最も身分の低い者達のように、私は心から、そう思わずにはいられない、まず第一に、彼女のその穏やかな心、第二に、その理解の早さ、第三に、そのあり余る程の親切さ。 彼女は私に、心からの喜びを与えてくれる。」

 

 

それらは、全て事実だった。

エリーザベト・クリスティーネは、ダンスの時には上品かつ優雅に踊ってみせた。

そしてお気に入りの読書の時間には、タキトゥス、キケロ、マルクス・アウレリウスの著書を読んだ。 1736年の10月3日に、ラインスベルク宮殿を訪れた、エリーザベト・クリスティーネの父方の祖母クリスティーネ・ルイーゼの記述によると、人々は哲学について話し合ったり、音楽鑑賞をしたり、食事、ディナー、カードゲームなどをして過ごしていたという。

また、1736年の10月23日には、<国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世が訪れ、美しい天気の中、ラインスベルク宮殿の人々と散歩を楽しんでいる。

既に、数年前のどこかおずおずとしていたエリーザベト・クリスティーネの姿は、もうどこにもなかった。彼女はラインスベルク宮殿で、のどかな雰囲気の中、心から夫や他の人々との交流を楽しんでいた。

 

 

明らかに、この和やかな雰囲気はエリーザベト・クリスティーネの存在から、創り出されていたものだった。

セッケンドルフ伯爵は、こう書いている。 「王太子妃の口から出る言葉は、美しい、その場に応じている、そしてその言葉は大きな影響力を持っている・・・」

それから何といっても、エリーザベト・クリスティーネの存在は、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世と息子フリードリヒとの関係まで、調和的なものにさせる役割を果たしていた。1739年の10月24日、エリーザベト・クリスティーネの兄カール・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの娘でエリーザベト・クリスティーネの姪のアンナ・アマーリエが生まれた。

エリーザベト・クリスティーネは、兄に心からのお祝いの言葉を述べると共に、<彼に宛てた手紙の中で、いまだ子供に恵まれない悩みを漏らしている。

 

 

エリーザベト・クリスティーネにとって、一向に子供に恵まれない事が深い悩みとなっていた。そんな中、1740年の5月、ポツダム宮殿でフリードリヒ・ヴィルヘルム一世は、余名いくばくもない状態にあった。

そして5月31日、ポツダム宮殿で死去した。 フリードリヒは、手紙でラインスベルク宮殿にいる妻のエリーザベト・クリスティーネにその旨を伝えた。

また至急戴冠式の準備に取り掛かるので、彼女にもこちらへ来て欲しいとも伝えた。

1740年の5月31日、新国王フリードリヒ二世と新王妃エリーザベト・クリスティーネの戴冠式が行なわれた。

しかし、エリーザベト・クリスティーネにとっては、新王妃となる喜びはなく、先王の死を悼む気持ちと共に不安の気持ちがあった。夫フリードリヒの手紙の調子は、儀礼的でよそよそしい調子で書かれていた。

エリーザベト・クリスティーネは、ラインスベルクでの幸せな日々が、終りを告げた事を感じ取っていた。

 

 

これ以降、エリーザベト・クリスティーネの立場は、四十六年間に渡る、単なる手紙受取人としての立場に格下げされていってしまうのである。公的な場では、フリードリヒとエリーザベト・クリスティーネの関係は、国王夫妻として保たれていた。

エリーザベト・クリスティーネは、前例のない、夫の冷遇と屈辱的なこの立場に、驚くべき自制心と落ち着きで反応していた。

しかし、依然として夫を熱愛しているエリーザベト・クリスティーネにとって、目に見えて冷たくなっていくフリードリヒの態度は、とても辛いものだった。

プロイセン国王と王妃の繋がりがなくなってから、フリードリヒの王妃に対する態度に、侮蔑が見られるようになっていく。

そして王妃ゾフィー・ドロテアとその娘達も、エリーザベト・クリスティーネと離婚したらどうかとフリードリヒに勧めた。

 

 

結婚から七年、エリーザベト・クリスティーネに妊娠の兆候は見られなかった。

これは、フリードリヒがあまり彼女と共に過ごそうとしなかったためであろうか?

そこで、このような推測が生まれている。「もしかしたら、プロイセン国王は、同性愛者だったのではないか?」

この説の、唯一の根拠はヴォルテールが述べている、以下の話である。

「国王はよく、女性達を中傷する文書を書いていた。しかし、若い小姓達に対しては明らかに態度が違い、彼らの事を気に入っていた。 特に財務官のミヒャエル・ガブリエル・フレドリクスの事が、殊の外お気に入りだった。」ヴォルテールは、彼の事を「大いなる雑用係」と呼んで、嘲笑した。

実際に、フレドリクスはフリードリヒと何らかの性的関係を持っていた。

またフリードリヒは、エリーザベト・クリスティーネとの結婚前にも、グルンブコフに宛てて次のように書いている。

「私が、女性というのものを愛する事は未来永劫ないだろう。」

また、彼の以下の言葉も、特徴的である。 「私は、女性を軽蔑するのが楽しくてしかたがない。」

 

 

しかし、フリードリヒにとって特別な女性達もいた。それはフリードリヒの母ゾフィー・ドロテアと姉のヴィルヘルミーネである。

彼は彼女達には、感謝と尊敬の気持ちを抱いていた。ある日、プロイセンをヘッセン=ダルムシュタット辺境伯夫人カロリーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットが訪れた。彼女は、「偉大なる辺境伯夫人」と呼ばれていた才媛だった。カロリーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットは、才気と機知に富んだ女性で、フリードリヒは彼女の事を評価した。また、自分の父方の祖母のゾフィー・シャルロッテの事は「天才の人々の中の一人」と呼んで尊敬していた。

 

 

フリードリヒにも、好意を抱く事ができた女性達は多少はいたという事だろうか?

エリーザベト・1752年にフリードリヒの2人目の弟ハインリヒが、ヴィルヘルミーネ・フォン・ヘッセン=カッセルと結婚した時 、フリードリヒは彼女の事を「神々しい」また「美しい妖精」などと称賛し、大変に好意を示している。

とにもかくにも、フリードリヒとエリーザベト・クリスティーネの夫婦としての、離れ離れの新しい生活が始まった。

1744年に、フリードリヒの上の弟のアウグスト・ヴィルヘルムに息子フリードリヒ・ヴィルヘルムが誕生した。

後のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世となる子供である。プロイセン国王の後継者問題は、こうして解決したのであった。

クリスティーネは、夫から完全に嫌われたと感じていた。