フリードリヒ・ヴィルヘルムは、

フランスに対する今後のプロイセンの

対応を協議するため、

その為のパーティーを開き、

王妃ルイーゼと共に出席した。

 この話し合いのためプロイセンを訪れた

アレクサンドルは、プロイセンの同盟国ロシアの君主としてプロイセン国民から熱狂的に

歓迎された。

 ベルリンではアレクサンドルも交えて、

幾夜にも渡り、協議と討論が行なわれた。

しかしアレクサンドルは、抜け目なく

新たに他の国と同盟を結ぶ事を画策していた。

 プロイセンの方はと言えば、

抜け目なさとははるか隔てた所にあった。

プロイセン国内では、しだいにこれまでの

中立政治を改めるべきではといった意見が

勢いを増していく。

 そのため、自然と、当時フランスとの開戦に

傾きつつあった王妃ルイーゼの発言力も

増していった。以前から、優柔不断で指導力にも

欠ける所があり、また外交が苦手だった夫

フリードリヒ・ヴィルヘルムの相談相手に、

ルイーゼがなる事が多くなっていた。

外交が苦手で戦争を嫌がる国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は、ここ数年の、ナポレオンのドイツ方面での勢力伸長を目の当たりにしながら、

事なかれ主義から、ひたすら受身的な中立政策に終始するのみだった。

 

 

 

 

 

プロイセンの方針転換を迫るルイーゼと、

中立路線を変えようとしないフリードリヒ・ヴィルヘルムとの間で幾度も口論が繰り広げられるようになった。この事について、

ルイーゼは弟ゲオルクへの手紙の中でも

触れている。

 

 

 すでに1805年に、2年前のハノーファー選帝侯国の領土支配を巡る問題の時から、

ドイツ方面でのナポレオンの領土伸張に

危機感を抱いていた、ルイ・フェルディナントと歩兵連隊大将エルンスト・フォン・リュッヘルら少数の陸軍元帥達が、これまでのプロイセンの中立政治の路線転換を行い、

フランスに宣戦布告するように国王に

働きかけてくれるよう、反ナポレオンの会合の

中で、ルイーゼを説得していた。

 その頃のルイーゼは、熱烈な愛国心に

目覚めていた。

 ルイーゼはルイ・フェルディナントの

話を聞き、プロイセンの領土を守るためには、

もはやフランスとの戦いもやむを得ないと

思うようになっていった。

 ルイーゼはその旨を、必死で夫に訴えた。

 

 

 当時のロシア外交官の報告によると、

一向にプロイセンの中立政治の方針を

変えようとしない国王をルイーゼが非難し、

口論になっていたという。

 プロイセン国内でも、

富裕層や市民層、貴族から軍人達まで、

フランスのハノーファー占領などの姿勢に

怒る者達が増加していった。

 国王の政治姿勢を非難する反ナポレオン派が

、勢いを強めつつあり、ルイーゼも、

その中の1人であった。

 同じく反ナポレオンの中心的存在であった

ルイ・フェルディナントがこう呼んだ

「王妃の会合」と呼ばれる会合を、

各場所で主催する程であった。

 軍部の人間達は、明らかに王妃の方が、

国王よりも人気がある事を知っていた。

 今や国王夫妻の間には、深い意見の相違が

横たわっていた。

 だがルイーゼは、国王夫妻の不仲が

世間に広まってしまう事を悩んでいた。

 ルイーゼはロシア皇帝アレクサンドルへの

手紙の中でも、プロイセン国王夫妻の不仲に

ついて否定している。

 プロイセンの反ナポレオンの会合の中で、

王妃ルイーゼはプロイセンの守護聖人、

そしてジャンヌ・ダルクに擬せられた。

 すでにルイーゼは生きながらにして、

半ばプロイセンの神話となっていた。

  ナポレオンはハノーファーをプロイセンに

と約束したものの、その領有権を巡り、

依然としてイギリスとの間に

この領土問題に関する明確な決着を

付けようともせず、

結局イギリスとの交渉を有利にするため、

ハノーファーをイギリスに返還してしまうという行動に出た。 

このやり方に、プロイセンは腹を立てた。

 いよいよプロイセン国内でも開戦派が

大勢を占めるようになっていき、

すでに1805年の5月10日には

シュタインから思案文書が提出されていた。

 

一八〇四年の三月、後にオーストリア首相となるメッテルニヒが、外交官としてベルリンに来ていた。

ウィーンではナポレオンに対する新たな戦争が、計画されていた。

 

外務大臣コベンツル伯爵ルートヴィヒ・ヨーハンとメッテルニヒは、オーストリア・プロイセン・ロシアと同盟し、共同でナポレオンとの戦いを企図していた。

 また、対ナポレオンのためのオーストリアとの同盟は、以前からルイ・フェルディナントも関心を持ち、意図していた事だった。また、彼は条件付きでロシアとの同盟も模索していた。

 国王フリードリヒ・ヴィルヘルムも、オーストリアとの同盟に関し、関心を示し、オーストリアとプロイセン間でしばらく手紙での交渉を続けていた。

一八〇四年の九月七日、ルイ・フェルディナントはオーストリアと内密に同盟を結ぶため、国王の使者としてウィーンを訪れた。

 

しかし、結局このオーストリアとの同盟は成立しなかった。

なお、四月二十七日には、シュタインはハルデンベルクの覚書に絡めて、

大改革案を起草した。

その中で彼は、ハーグヴィツ、コシクリッツ、ロンバルトを辛辣に批判し、

顧問官の役割も細々と批判した。

彼は顧問官制度を廃止し、代わりに大臣達による審議会を設け、

これに行政権を持たせる事を意図していた。

ルイ・フェルディナントら「戦争の会合」のメンバーは、

フランス寄りの政策を取り続けているこの顧問官達が、

政治に有害な影響を及ぼしていると考え、

現在の顧問官制度は弊害があると考えていた。

特にハーグウィツは、ルイ・フェルディナントも

「フランス人の友」と呼んで嫌っていた。

  シュタインは、不穏な箇所は削除した提案書を

まず王妃ルイーゼの所へ送った。

ルイーゼは基本的には原案に賛成だが、提案内容も言葉も、

国王には急進的に映るのではないかと返事をした。

そして、「原案を修正し、更にシュタインの他に国王の信任厚い人達と共同

署名してから持って行ってはどうですか」と提言した。

こうして、6月、7月、8月の三ヶ月の間に、国王の許に、

プロイセン陸軍総司令官のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公爵、ルイ・フェルディナントを初めとする古参将校達から、ハーグヴィツとロンバルトを罷免し、フランスとの開戦を決意しろとの要求が、何十通もつきつけられた。

しかし、国王はこれに対し、一切の対応を拒否したばかりではなく、

激怒して国王としての権威を振りかざしたため、更に過激な手段が取られる事になる。

これが、8月に提出される、あのプロイセンの歴史上でも今までになかった、連名の意見書の提出である。

 

 

1806年の7月にフリードリヒ・ヴィルヘルムは、アレクサンドルと秘密条約を結んだ。

プロイセンの独立とその領土の安全を、

ロシアは軍事力で保証する事、

そしてプロイセンの方はもしフランスが

ロシアに宣戦布告した場合は、

フランス側について戦争に参加しない事

という条件だった。

 

 

その頃バートピュルモントに滞在中だった

ルイーゼは回復し、ベルリンに戻ってきた。

王妃の帰還は大歓迎された。

8月、 業を煮やしたルイ・フェルディナント、弟のアウグスト王子、国王の弟ハインリヒ王子とヴィルヘルム王子、そして国王の妹ヴィルヘルミーネの夫で義弟のオラニエ公ヴィルヘルム、シュメタウ将軍、そしてプヒュルとリュッヘル将軍、シュタイン帝国男爵らが、

連名で内閣の解任要求の意見書を提出した。

元々、 この覚書は、ルイーゼの友人のカロリーネ・フォン・ベルクを通して、

何かのおめでたい集まりでもある際に、

ルイーゼに手渡し、彼女からそっと打診してもらう計画だったのだが、手違いで、

共同署名者の一人の副官が国王に直接届けてしまったのだった。

プロイセンの歴史上、極めて重要な意味を持つ

この意見書は、何の手回しもされないまま、

いきなり国王の目の前に、差し出されたのである。

この覚書の中では、プロイセンを昨今のような

深刻な危機に陥れた諸政策を厳しく非難した後、現在の国王の顧問団はやがて全軍部、

全国民、今はまだ好意的な国外の王室からさえ、極端な不信を買うに違いないと断言しており、また顧問団は買収されているという噂があるが、この際そんな事は問題ではない。

何かにつけてナポレオンと共謀している

彼らは、最も卑劣な従属と引き替えに平和を買うか、戦争になったらできるだけ手ぬるい

措置を取るつもりであろうから、

もし陛下が積極的な方針を打ち出し、

将軍達が名誉にかけてそれを実行する事に

全力を尽くしたいと言い出せば、

顧問団はこちらを裏切る訳にもいかず、身動きが取れなくなるであろう、望ましい成り行きを期待するには、ハーグヴィツ伯爵と二人の顧問官を解任する以外にない、これら自分達ばかりではなく、国民全体の声であるという趣旨になっている。

 

 

ルイーゼは、さすがにこの内容には賛同しなかった。

そして、この意見書を突きつけられた

国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は激怒し、「これは謀反だ」と叫んだ。

署名者達には、国王の立腹振りが伝えられ、

似たようなグループの活動は一切禁止された。

軍隊の指揮権を委ねられている王子達は、

直ちに所属部隊に帰任するように命令された。

以降の、署名者の一人である国王の弟ヴィルヘルムと国王との話し合いも、一向に事態を好転させる事にはならなかった。

ルイ・フェルディナントは、国王夫妻に別れの挨拶をするために対面する事も許されなかった。

ルイ・フェルディナントは、ルイーゼに対して釈明の手紙を書き、それを姉のラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケとカロリーネ・フォン・ベルクを通してルイーゼに送った。

その手紙の中で彼は、「プロイセンの前途は誠に悲観的だが、国王と祖国のために我が血を流す覚悟をしています」と書いている。

 

 

 

 

 

 

 ついにフリードリヒ・ヴィルヘルムは、

開戦派の声に抗しきれなくなり、

フランスとの戦争を決意した。

 ようやくの決断であった。

 国王は8月8日付けで、7月にロシアと

交わした秘密条約について触れ、

アレクサンドルにロシアの援軍を

要請する書簡をしたためた。

 またザクセン選帝侯とヘッセン選帝侯、

ザクセン=ヴァイマル公とザクセン=コーブルク大公も援軍を約束した。

ザクセン、ヴァイマルとその他テューリンゲン方面の各小国がプロイセン側で戦う事となった。

 

8月9日、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は

プロイセン国内に動員を命令した。

 後日、アレクサンドルから承諾の返事が

返ってきた。 

 

 

 

この頃ルイーゼは、バイロイト第五竜騎兵連隊、通称「ルイーゼ王妃の竜騎兵」の隊長となり、襟が青く染められた軍服を纏っていた。

 

 1806年の9月、大選帝侯の彫像がある

王宮前広場の前を、プロイセン軍が行進していった。

フリードリヒ・ヴィルヘルムとルイーゼは、

共にそれを見守っていた。

 9月5日に75000人を率いた

プロイセン軍総指揮官のブラウンシュヴァイク公カール・ヴィルヘルムに、

56000人と9000人のプロイセン軍とザクセン軍の、ザクセンの歩兵連隊「選帝侯」と「クサーヴァー」をそれぞれ率いたホーローエ公フリードリヒ・ルートヴィヒ、

ベビロクワ陸軍少佐、それに陸軍中将のルイ・フェルディナントがドレスデンに進軍していた。

 1806年の9月21日、

ルイーゼは妹のフリーデリーケに

宛てて、こう書いている。

「私はめまいと歯痛がします。今夜は特に

ひどいような気がします・・・・・・」

 しかし、それでもルイーゼは勝利の期待に

満ち、気分が良かった。

 23日、ルイーゼは夫と共にナウムブルクに

置かれたプロイセン軍本部にいた。

 それまで憂鬱な雰囲気だった兵士達の士気が、王妃の存在によって大いに高揚した。

 この時、フリードリヒ・ヴィルヘルムと

ルイーゼは、フリードリヒ大王からの栄光の

プロイセン軍の力を信じきり、

またナポレオンの実力も正確に把握する事が

できず、甘く見ていたと言えよう。

 プロイセン軍は実に10年間も、

十分な訓練を行なわないままであった。

 

 

 10月1日、プロイセンはフランスに

最後通牒を出す。

 ドイツ国内に駐留する全てのフランス軍は

ライン左岸まで撤退する事、

プロイセンを盟主とした、いまだ「ライン同盟」に加わっていないドイツ諸国の全てを

統括する北ドイツ同盟の結成を、

フランスが承認する事である。

 1795年の「バーゼルの講和」以来、

プロイセンは戦争を避けながら領土を

増やしつつ、国力の充実を図り、

名実共に北ドイツの盟主となる事を

目指すようになっていた。

 ナポレオンは、このプロイセンの最後通牒を

拒絶する。

これを受けプロイセンは、10月9日に

フランスに宣戦布告した。

 フリードリヒ大王の時代からのプロイセン軍の

栄光を信じ切り、事態を楽観視していた

ルイーゼ達の許に、宣戦布告からわずか翌日に凶報が届いた。

 10月10日、プロイセン軍の前衛を

務めていたルイ・フェルディナントが、

ザールフェルトでフランス軍の騎兵の攻撃に

あい、戦死したのである。

 享年33歳だった。

 9日、ランヌ元帥率いるフランス軍が、

プロイセンノ前衛と遭遇した。

 ランヌはプロイセン軍を大砲で攻撃した。

次々とプロイセン側に使者が続出していった。

 10月10日の朝7時、ルイ・フェルディナント達は、ザーレ川の方角にある、

ザクセン=コーブルク大公アウグストの

ザールフェルト宮殿で待機していた。

 辺りは、霧が立ち込めていた。

 その内に一行は、ザールフェルトに

向けて進軍していった。

 途中に、テューリンゲンの森でフランスの

第10騎兵連隊に遭遇する。

 ルイ・フェルディナントは砲兵連隊に

一斉に射撃を始めさせた。

 しかし戦況は思わしくなく、

ルイ・フェルディナントはプロイセン軍本部の

ホーンローエ公への連絡を命令した。

 何人かの将校は、この戦いを中止する事を

進言した。

 ホーンローエ率いるタウエンツィン舞台は、

10月9日の正午、シュライツでの

ベルナドット元帥率いるフランス軍との

戦いで、500人以上の死者・捕虜を出し、

ポーランド中部へ撤退してしまっていたのだった。しかし、プロイセン軍がもうこれ以上

ザールフェルトの陣地を確保する必要が

なくなったにも関わらず、ルイ・フェルディナント達への撤退命令は出されないままだった。

 その内にルイ・フェルディナントも

退却を試みるが、フランスの騎兵隊に包囲

され、それもかなわなくなってしまった。

 ルイ・フェルディナントの戦死に、

ルイーゼ達は大きな衝撃を受けた。

 特に彼とルイーゼは、日頃からとても

親しく、対ナポレオンの姿勢でも強い連帯感を

抱いていた。

 ルイーゼは長男のフリードリヒ・ヴィルヘルム王太子に宛てて、ルイ・フェルディナント

王子戦死の悲しみと衝撃について、

こう書いている。

「最初、私はこの事実を認める事ができませんでした。彼の死は私の中で、この上もなく

残酷な印象を与えたからです。」

 

 

 ルイ・フェルディナントは豊かな才能に

恵まれ、奔放な暮らし振りながら、

宮廷の人々に深く愛されていた王子だった。

 更に彼は有能な軍人でもあり、

いわばプロイセンの希望のような存在だった。

 ナウムブルクのプロイセン軍本部には、

暗く重たい空気が立ち込めていた。

  

 1806年の10月14日、

時代遅れになった鈍重なプロイセン軍は、

イェーナの戦いとアウエルシュテットの

戦いで大敗し、フランス軍に徹底的に

打ちのめされた。